本を読む 1 (1)〜(4)

 (本は「買わない読まない置かない」のですが、いきさつがあって、ある本の著者宛書簡体です。ただし、元の本を読まない人にも分かるように書くつもりです。断続的に続ける、かもしれませんが、多分途中まででしょう。)
       (1)
 かつて、『天才バカボン』の連載終盤で赤塚不二夫は、遂に絵ともいえないグニャグニャ線を登場させました。赤塚は、マンガそのものを成立させている「線」までをも「センス(既成枠)」だとして喰ってしまうという、ナンセンス・ギャグの極北に到達することで、いわば歴史を止めたのでした。
 絵画におけるダダ・シュールレアリズムやアクションペインティングもまたそのようにして絵画の既成枠を喰って歴史を止め、あるいは J.ケージは「音」そのものを喰って遂に無音に到達したのでした。けれども、もちろん、マンガも絵画も音楽も終わったのではありません。それらのジャンルは、より広い場での社会的需要に支えられて、以後も豊かに展開してゆきます。「芸術批判である芸術」の歴史の終焉は、ジャンルの歴史の終焉ではもちろんありませんでした。赤塚以後もギャグマンガの名作は創られ続けます。美術音楽またしかり。
 私はフェミニズム言説史には全く不案内ですが、もしかして、J.バトラーという人もまた、そのような存在なのでしょうか。フェミニズム言説を支える概念枠そのものを喰ってしまうことで、「言説批判である言説」の歴史を止めたという意味で。けれども、もしそうだとしても、性別による差別や抑圧という社会状況がある限り、フェミニズムの歴史そのものが終わるわけではありません。もしかすると、そのようにしてフェミニズムは、先鋭性を競う言説の歴史から、社会改革、社会政策の有効性を競う、本来の歴史に戻ったというべきなのかもしれません。性をめぐる社会関係を原理論的に問い進めるといった作業にかまけるよりは、社会政策論の一分野としての歴史をさらに押し拓いてゆくことを課題として。
       (2)
 第一章です。多分、本全体もそうなのでしょうが、この章で書かれていることはよく分かりますし、基本的には異論はありません。面白く読ませて頂きました。が、折角ですので、頁を読みながら、余計なことを少し記させて頂きます。
 さて、著者は本の冒頭から二つのカタカナ語の概念を対比させ、以下、その対比を軸に話を進めます。
● 「パターナリズムリベラリズム、私たちの社会にある倫理的態度は基本的にはこの二つになる。すなわち、「あなたのことをわがこととして思うゆえにあえて口出しを」と「あなた自身のことだからご自身で」とのこの二つの態度である。」(p3、以下数字は頁
 二つの発語文によって分かりやすく示される両者は、「私たちの社会にある倫理的態度」だとされます。「倫理的」という語の意味はさておいて、ともかく両者は、「基本的」な「二つの態度」なんですね。
 さて、前者「パターナリズム」を説明する発語文は、前段、後段、二つの部分からできています。「リベラリズム」の方も、それに対応する形にすると、次のようになるでしょう。
  パターナリズム|前段「(わたしは)あなたのことをわがことと思う」→後段「あえて口出しを(する)」
  リベラリズム  |前段「あなたのことはあなたのことだ」→後段「あなたに口出ししない」

 前者「パターナリズム」では、前段のわたしは、「あなたのことはわたしのこと、わたしたちは「同じ」なんだよ」、と語りかけます。だが後段では、わたしは「口出しする」側で「される」側のあなたとは「同等」ではありません。少し後で、「ケア関係の力の非対称性」とか「パターナリズム的権力」とかいわれているのがそれでしょう。
 一方、後者「リベラリズム」は、広く「私たちの社会にある」、他人にはかまわない態度です。「あなた自身のことだからご自身で」。若者風な口調なら「勝手にすれば。」という態度でしょう。  
       (3)
 さて、いま二つの「態度」が呈示されたわけですが、次にすぐ、それらは「原理」とされます。
● 「これらは、一方は自他同一性、共感、ケア原理であり、他方は自己決定と自由意志、自己責任の原理であろう。」(3)
 そこで、今あげられたそれぞれの原理と、先の前段・後段を対応させると、気付くことがあります。
  パターナリズム|自他同一性、共感の原理 =「あなたのことはわがことと思う」(前段)に対応 
  リベラリズム  |自己決定、自由意思の原理=「あなたのご自由に、口出ししません」(後段)に対応

 ここで、パターナリズムの原理には、前段のみが反映していて、後段の「口出しする」「非対称」な「権力」関係は明示されません。「ケア原理」ということばもあって、それは前後段を共に含むでしょうが、後の頁で示されるように、著者には、後段(権力関係)を抑えて前段を救い出したいという意図があります。すぐ後でも、「「他者への共感」、「あなたのことをわがこととして」という自他同一性の感情に立つケア倫理」(4)と、後段の「口出し」をカットしたいい方をしています。
 それに対して、リベラリズムの原理は、むしろ「勝手にやれば。口出ししないよ」、という後段に対応します。というか、すぐ後でも「リベラリズムの倫理、自己決定倫理」(4)といういい換えをしていることからも分かるように、著者はリベラリズムを、後段を軸に捉えます。
 例えばリバタリアニズムなどと違って、もともと「リベラリズム」は曖昧な概念ですが、例えば、A.スミスに明らかなように、少なくとも古典的な時代には、自由な市民の間の「共感」は「リベラリズム」を<支える>原理だったのではないでしょうか。より広く見ても、「(多様な)人間の共同性の基礎を成り立たせる「他者への共感」」と<対立する>リベラリズム、といったものはむしろ考えにくいでしょう。しかしここでは、対比を明確にするためでしょう、「自他同一性、共感」は、パターナリズムの原理とされて、リベラリズムの原理と対立させられます。
 別のいい方をしてみます。もしも前段、後段が完全に同格なら、前段「あなたのことはわがことと思う/思わない」、後段「口出しをする/しない」の組合せで、図式的には4通りの態度が作れますから、a、両方肯定のパターナリズム、b、両方否定のリベラリズムの他に、あと二つの社会的「態度」があることになります。
  c 「あなたのことはわがことと思う」+「あなたに口出ししない」
 「あなたのことはわがことのようによく分かっているから、いちいち口出しすることなんか何もない。好きにすればいいのよ」とか。相手は自分と同じだと信頼して任せる関係は、家庭でも職場でも、ある意味理想ですね。
 一方、反対に次のような態度ももちろんあります。
  d 「あなたのことはあなたのことだ」+「あなたに口出しをする」
 「あなたがどう思っていようがそんなことに興味ありませんよ。でもわたしには嫁であるあなたの家事に口出しをする権利と責任があります」とか、「君は友人でも何でもない。でも職務上伝えておくが、これ以上遅刻すると査定にかかわるよ」とか。世の中、いくらでも転がっている「態度」です。
 図式化しすぎでしょうが、とにかく著者は、上の4つのうち、aとbをあげて「私たちの社会にある」態度は「基本的にこの二つ」だとすることで、残りの二つc、dをはずしているということを確認して、次を読みます。
       (4)
 そこで次に、両者とフェミニズムとの関係が問題になります。ここで、著者のテーマが集約的に示されます。
● 「パターナリズムリベラリズムの倫理、自己決定倫理はどのような関係をとりうるのか。」(4) 
● 「フェミニズム(は)〜女性の個としての自由と自立を第一義的課題とする(ので)〜リベラリズム倫理の側にその価値をおくこととなる。フェミニズムからはケア倫理の視点は拓きにくい。」(P3-4)
● 「しかし、人間の共同性の基礎を成り立たせる「他者への共感」、「あなたのことをわがこととして」という自他同一性の感情に立つケア倫理をはたして全面的に手放すことができるのか。」(4)

 もちろん、「全面的に手放す」と「人間の共同性」を一切認めないことになってしまうので、答えは最初から分かっています。それでも、どちらを応援するのかといえば、リベラリズムの原理を「自己決定と自由意志」とした以上、女性の「自由と自立」を課題とするフェミニズムがそちら側に立つ、ということは決まっています。
 ただ、フェミニズムが課題とするのは、もちろん、(少なくとも本来は)<男>あるいは家父長的な家あるいは男性社会からの「自由であり自立」であって、フェミニズムは、それらと闘い、自らを、女性を、解放してきました。その限りで、フェミニズム運動は、少なくとも古典的な形としては、<女>という「同一主体」の連帯運動であり、男の支配に苦しむ「あなたのことをわがことと」する闘いだ(だった)、といえるでしょう。
 多分しかし、女性たちの「同一性」や「共感」を靱帯とする運動は、第二波とか何とかいう波で、かなりの部分が押し流されてしまったのでしょう。「自由と自立」の旗は変わらなくても、いまは「同化」はまずくて「多様化共存」の時代ですから、「同じ」市民とか「同じ」女性としての共感を基礎とするようなリベラリズムフェミニズムは古くなり、というか帝国主義だということになり、結果、「自他同一性」や「共感」は、最初から反対側の「原理」に追いやられているのでしょう。逆にいえば、「自他同一性」や「共感」が、最初からパターナリズムという名で狭い共同性(すぐに「親密圏」という名が与えられます)の内に追い込まれている時代ともいえます。