「サルトルとボーヴォワール」続き

 ○言葉と暴力 
 前回書いたことは、もちろん批判でも非難でも全くありません。たとえ、「小市民にはなりたくない」というのは、実は「小市民の貴族になりたい」ということであったとしても、小市民の貴族である作家だけが、(実際はともかく)「自由」な存在として輝けるからです。「生活は小市民的じゃないかといいたいなら勝手にいっていればよい。物質的な生活が小市民的であろうとなかろうと、われわれは小市民の精神を縛るものに、いやあらゆる人間を縛るものに、反抗するのだ。人間は自由だ!」、といった具合に。
 では、小市民を縛るものとは、何なのでしょうか。彼らは、小市民的な何に反抗し何から自由になろうというのでしょうか。例えば古い身分システムに代わる小市民的学歴システム・・・などでは全くありませんね。映画が描くのは、専ら性関係システムへの反抗です。ということで、アクションシーンが多いのがアクション映画なら、この映画は性愛映画といえる位、何度も、ベッドシーンまたは準ベッドシーン?が繰り返されるのですが、その話はあとに回して、もうひとつ、この映画は暴力映画だ、といえば、もちろんそれは全くのウソです。
 全くのウソですが、しかし全くのウソでもありません。大体、この映画の冒頭シーンは、大学の図書館で、Pサルトルがビーバーにちょっかいを出そうとして、言葉での問答無用と即殴りかかって喧嘩になる暴力場面です。そして、映画の終わりの方では、もうひとり重要な愛人作家が、ビーバーを言葉で誹謗する通行人に一発お見舞いして黙らせます。言葉より暴力。
 あくまで映画の中の「Pサルトル」だと、念のため繰り返しておきますが、ともかく彼は、ビーバーの父親にも、言葉よりも暴力で決着をつけようとファイティングポーズをとり、体育の時間(?)に「教師を殴れないよ」という男子生徒を打ちのめし、おびえて逃げる女生徒を暴力でものにしようと追いかけ、鏡にぶつかって怪我します。そしてまたビーバーはビーバーで、自分の父親である老人を殴ろうとした彼を「勇気がある」と褒め、男子生徒を倒した後で「娼館にでも行け」と笑う彼を非難もせず、女子生徒に暴力を振るおうとした彼を批判するどころか協力しようとします(これは後で取り上げるつもりですが)。
 しかし、やがて、二人の生きる時代は、緊迫度を増してゆきます。すると映画は、迫り来る徴兵やユダヤ人排除の強制といった国家暴力に、身体を張った反抗はせず(できず)、ドイツ軍と戦えといいつつ戦線から離脱し、占領軍に対しても暴力的レジスタンスではなく、言葉で「抵抗する作家」の道を選ぶという二人の姿を描きます。暴力より言葉。
 もちろん、あの時代に生きて、国家や軍隊という巨大な暴力装置に対して物理的暴力では抵抗せず(できず)に、言葉という武器で闘った者を、簡単に論評することなどは絶対できません。
 だが監督は、そのような二人の姿を描く映画の冒頭に、図書館という言葉の殿堂で言葉をかけた学生に言葉ではなく拳で突然殴りかかるというPサルトルの暴力シーンを置き、そして後半に、新愛人が、通行人の罵り言葉を言葉ではなく一発暴力で黙らせるシーンを入れるのです。ちなみに、Pサルトルが殴り合いをしようとしたのも新愛人が一発殴ったのも、巨大な暴力装置とは対称的な、ステッキをついた老人です。監督は、何かの覚悟があって、わざわざこのように撮ったのでしょうか。
 ま、これも多分、全くのいいがかりなのでしょう。道ばたで罵る老人に拳で一発お返しするシーンで、私などは単純に溜飲を下げてしまいましたが、監督さん、それでよかったのでしょうね。そのあたりも、どうもよく分かりません。(また続く)