「サルトルとボーヴォワール」続きの続き

 ○「哲学」と「愛」
 1本の映画のことを、こんなに長く書く程のことはないのですが、書きかけた以上、肝心の問題を放置したままというわけにはゆきません。
 この映画は、副題が「哲学と愛」となっています。
 いわゆる「大きい物語」の失権消滅という最近のいい方でいえば、哲学ほど「大きい」物語はないでしょうが、歴女とかテッちゃんとかいうレベルでは、哲学もまた、結構「消費」されているようです。思えば、あの『ソフィーの世界』あたりからだったのでしょうか。見たことはありませんが、ミニスカ眼鏡っ子スピノザとか黒髪ロングの聖少女春出川(ハイデガー)らが登場する『僕とツンデレハイデガー』なんていう漫画もあるらしいですよ。話がそれましたが、ともかく、そこまで作ってしまえば別ですが、伝記的なスタイルにとどまる限り、Pサルトルの「哲学」そのものを<映画の中>でドラマチックな「絵(シーン)」にするのは至難の業です。というかできないでしょう。
 そこで、「哲学」の内容を直接描くことができない映画は、専ら哲学者の「愛」の生活を描きます。「反抗と自由の哲学」の実践としての、小市民的な一夫一婦倫理への「反抗と自由な愛」のドラマですね。
 けれども、一夫一婦制への反抗といっても、不倫男女は世の中ゴマンといますし、秘密ナシだ公認だといっても、例えば勝海舟に「俺なんザ秘密なしサ、昔から複数の妾と妻妾同居、実に仲良くやってるゼ」といわれてしまいます。
 というわけで、「反抗と自由」の度合いがかなり強い性愛ドラマにせざるをえません。
 ・・・女子生徒が女先生に訴えます。「男先生が私のお尻を触るんです」。「名誉と思いなさい」。「え?!名誉?」。「彼と私は一体です」。実は女先生は、その女子生徒とレスビアン関係になる前から、男先生とできているのです。やがて、女先生の部屋に女子生徒が駆け込んできます。「先生、かくまって。男先生が暴力で迫るんです」。男先生が追ってきます。「いうことを聞け」。「いやです。カレシ(男子生徒)はきれいだけど、先生は絶対イヤ」。「何?俺と寝ないで、カレシと寝たのか!」ガチャーン。鏡をたたき壊した隙に、女子生徒は逃げます。「怪我、大丈夫?」。「あの子が欲しい。説得してくれ」。「斡旋しろというの。あの子は諦めなさい。代わりに、ロシア人の女子生徒はどう?」。さらに、後に女子生徒はカレシと結婚しますが、女先生は、その元生徒の夫とも不倫をします。
 いやはや、グチャグチャの関係ですね。でも、R-18映画「乱れた学園」のストーリー紹介かと相好を崩してはいけません。逆に、未成年何とか、セクハラ、パワハラ、婦女暴行未遂、のテンコ盛りだと眉をひそめてもいけません。そうではなくて、これは、小市民的一夫一婦制を否定する、自由で対等な契約結婚の実態であり、「反抗と自由の哲学」の実践なのですから、観客は、「さすが自由の哲学者ね」と感心しなければなりません。そうですよね、監督さん。
 ただ、それにしては、ビーバーに契約結婚を迫るPサルトルに、「作家には新鮮な刺激が必要だから」といわせているのはどうでしょうか。後半の講演では「人は全人類に責任をもつ」とかいう台詞もありますし、反抗とか自由とかは、一応、普遍的な人間の条件として問題になるのではないかと思うのですが、「作家だから自由な恋愛が必要だ」「人による」のだというのでは、「それはオメエ、なんだ。芸人の嬶ァになろうてンなら、悋気はいけませんよ。道楽は芸の肥やし、炮烙は灰の親父ってね」、といったレベルになってしまいます。
 さて、ともかくそういうようにして、映画では、さらに何人もの男女がからむエビソードが重ねられますが、「作家の自由」のための契約結婚は、それらの人々だけでなく自分たちの嫉妬心をも克服できないまま破綻して、遂に二人はセックスなし仕事だけの関係になります。
 それだけではありません。何より母親のような生き方だけはしたくないと思っていた筈のビーバーは、母親から「彼もお父さんと同じただの男よ。いえ、私たちには愛があったわ」、といわれて、強くはいい返せません。もちろん、何度も繰り返しますが、あくまで<映画の中>で監督がそう描いている、ということですが、それらシーンの背後に、監督は、納得する観客を予想しているのでしょうか。
 思えば、一夫一婦制とは、もともとは連綿する家族制度ひいては氏族制度の一部ですが、近代(小)市民社会における氏族制度の崩壊と家族の核単位化によって、遂に骨組みだけが残ります。制度的結婚でなくても、浮気があっても、子供がなくても、セックスも同居もしなくても残る、永続的なペア関係の相互承認。一夫一婦制度の否定という「反抗と自由の哲学」の象徴的実践から出発した筈の二人は、いろいろあっても関係を継続させ、女が男を看取り並んで墓に入るという、一夫一婦の最終形態にまでその人生を収斂させてゆくことが示唆されます。ある意味これぞあるべき理想のカップル(一夫一婦)だと見る向きさえ生まれるのも無理ありません。
 観客はどちらを期待されているのでしょうか。この映画は、二人の「哲学と愛」が小市民的一夫一婦関係を批判し切った生涯ドラマとして観るべきなのか、それとも、結局そこに回収されたんだなあという感慨をもって観るべきなのか。もうひとつよく分かりません。(あと一回)