「サルトルとボーヴォワール」終わりのつもり

 ○「女になる」
 この映画にこだわり過ぎ。これで終わります。
 繰り返しますが、あくまで<映画の中>の話です。
 後半、ビーバーが講演旅行に行ったアメリカで、今までとは全く異なるタイプの作家が彼女の新愛人として登場することで、映画はガラリと変わります。
 「小市民にならない」といいつつ、生活は全く小市民的に豊かで上品なフランスの人々と違って、新愛人はワイルドだぜえ。フランスでは、最高学府を出て文壇論壇に登場した二人は、下層庶民には縁のない高級ホテルでのパーティーやプールサイドで仲間と集い、楽しんだり議論したりしますが、アメリカでは、新愛人の仲間は下層黒人たちで、遊びは酒場での賭カードです。フランスでは、「人間」とは「現代」とはといった高尚なテーマが哲学と文学の熱い議論となっており、断然それをリードするのがPサルトルですが、アメリカでは、例えば女は年に何回セックスをするかといった、高尚な人々の眉をひそめさせるような調査研究が新しい社会学として登場していることを、新愛人がビーバーに教えます。
 ビーバーは、Pサルトルにリードされ文壇に紹介されて、サルトルと思想を同じくする仲間たちの女神となりますが、しかしアメリカで新愛人に紹介された社会学的視点に触発されて、(Pサルトルが考えていなかった)女性問題に取り組み、『第二の性』を書き上げて、ある意味Pサルトルから自立します。
 もっと対照的なのは性愛です。Pサルトルに、愛を「教えて」というところから始まったビーバーの性遍歴は、小市民的倫理からの自由の実践として華麗に繰り広げられますが、状況はR-18映画的であっても、シーンはいずれもR-18的ではなく、女子生徒や文系男たちと、互いにすべすべした肌を合わせる、あっさりした「ベッド」シーンです。でも、新愛人は、ミシガン州のワイルド男。前半とは違い、無精ひげにリードされた激しい「セックス」シーンの中で、ビーバーははじめて、Pサルトルの哲学に保証された自由恋愛の実践という観念を離れて、自分の性的身体を全面的に解放します。
 ただし新愛人は、結婚して子供が欲しいというような男なのですが、そんな彼から指輪を贈られて、ビーバーは心が大きく傾き、一時は本気で結婚しようと考えます。でも、Pサルトルに、「僕から離れると、作家を続けてゆけないぞ」と脅されて、彼に寄り添う「女神」としての自分を捨てられません。
 ・・・ということで、二人の「男」の間で、「哲学と愛」の間で、迷ったビーバーは、ワイルド新愛人から送られた指輪をして、Pサルトルの墓に並んで眠っている、ということを伝えて、映画は終わります。
 代表作『第二の性』は、前半では傑出した哲学者の男に女神として認められ、後半では作家であるワイルドな男に女として愛された、ビーバーという才知あふれる女性が、自らの半生を振り返りつつ、男によって女は「女になるる」といい切った作品なのでした・・・なんてね。監督は何をどこまで予想していたのか分かりませんが、そういう「正解」でビーバーをリスペクトして、満足気に帰る観客もかなりいるのではないでしょうか。ま、収益が上がればそれでよし、ですがね。
 ・・・と書いて気がつきました。これで終わっては、もしかすると、かなり誤解されそうです。申し訳ありませんが、あと1回。