漱石 1911年の頃 3:講演と観光3

 ところで、「先達てやつた「文芸と教育」」ですが、実は関西講演旅行は、病後はじめての講演旅行ではなく、漱石はすでに6月に、高田と諏訪に行っているのです。これについても漱石は、11.6.22.長谷川如是閑宛の手紙で、気が進まなかったような書き方をしています。
 「拝啓。小生去十七日から高田へ行き諏訪を終て帰京。三カ所にて講演をやらせられずいぶん恐縮致候」
 「講演をやらせられずいぶん恐縮致」というのは、ちょっと説明が要るかもしれません(余計な付記ですが、「恐縮」ということばは普通の意味で受け取っておきます)。最初の講演は、信濃教育会から依頼を受けての出掛けた予定の講演ですが、あとの二つは違います。長野で、大変世話になった元の主治医と会って、その自宅に招待され、依頼されて急遽話をすることになったものです。漱石としては、ちゃんとした話ができず恐縮、と書いたのでしょう。しかし「講演をやらせられ」るのが本当に嫌だったのなら、朝日からの依頼でもありませんから、話があった時点で断れた筈です。ところが実際には、漱石自身がこの講演旅行に行きたがった様なのです。夏目鏡子が『漱石の思い出』で、その辺りの事情を次のように話しています。
 「六月の中旬頃、長野の教育会で講演に来てくれろというお頼みがありまして、自分でも彼方の方には行ったことがないので、行く気になってお引き受けいたしました。けれども私の身になってみれば、また汽車に揺られて折角治った體をいけなくするようなことがあってはいけないというので極力反対するのですが、ナーニもうだいじょうぶだ。心配することはないといって承知してくれません。そんなら私も一人旅をされてどこでどう病気をされないものでもなし、家に留守居をしていてもそんなことを考えては不安でなりませんので、ついて行くと申します。夏目は夏目で、講演に行くのに女房なんか連れて行くのはいかにも見つともよくないからよせととめます。しかし私はどうしてもついてゆくとがんばります。・・(すったもんだの末)とうとう夏目の方が負けて、一緒に行くことになりました。」
 ということで、6月17日の朝上野を出て長野へ。翌18日新潟県の高田へ行き、直江津まで足を伸ばして、折り返して、20日に高田から松本へ行き、上諏訪に泊まり、翌21日に帰宅。3回の講演や講話をしながらの4泊5日。かなりきつい旅でしたが、漱石は、旅の途中、車窓から見える浅間や妙高などなどの景色を、説明を受けながら楽しんだ他、長野で善光寺に参詣し、直江津で帝石砿業や親鸞上人の旧跡を訪ね、松本では城の天守閣に登り、諏訪でも諏訪神社に詣でています。今のことばでいえば、かなりの観光旅行(ないしは予備取材旅行)でもあったといえるでしょう。
 というわけで、「和歌山などはまだ行った事がないから、どうか其方へ向けて頂き度」と漱石が書いたとき、漱石にとって和歌山もまた、大逆事件で多くの連座者を出した土地というだけでなく、それよりむしろ観光地和歌浦を擁する土地として意識されていたことが想像できます。
 ちなみに、旧友漱石を満韓旅行に招待したことのある満鉄総裁の中村是公は、和歌山講演の翌年夏に再び漱石を連れだし、日光、軽井沢、上林温泉、赤倉と回る旅をします。今回は講演もなく、馴染みの芸者を連れた是公との、「至極呑気な旅」(鏡子)でした。
 繰り返しますが、生死の境を彷徨った入院生活から、大逆事件の処刑直後に退院した漱石は、まだ間もない6月、8月に講演旅行に出掛けたのでした。そのことについて、この時期の漱石には、再発の危険を侵してでもどうしても語らねばならないことがあったのであり、とりわけ和歌山で、幸徳らを縊り殺した「現代日本」への絶望を黒い吐血のように絞り出したのでした・・・といった具合に、格好よく語るべきかもしれませんし、そのように見る評者に、異論を立てるつもりもありません。
 それでも、そう重くいわずに軽薄にいうことを許してもらえるならば、和歌山での講演は、「観光の序に演説をするのか、演説の序に観光をするのか」とジョークを飛ばす旅でもあったのでした。(続く)