漱石 1911年の頃 2:講演と観光2

 先にもいいましたが、新聞社にとっては販促企画でもあったであろうこの真夏の連続講演会は、瀕死の瀬戸際からようやく戻ったばかりの漱石にとって、大変負担になる仕事でした。そして実際、彼は最終日に旅先で再入院することになるのですが、漱石は出発前に、11.8.1.小宮豊隆宛の手紙で、こうこぼしています。
 「小生九日頃東京を出て大阪に行き、和歌山と明石と堺で講演をする事になり候、暑いのに気の知れぬ事に候。それが大阪の新聞のどの位の利益になり候や疑問に候」
 もっとも、「気の知れぬ事」というのは、病後の漱石を引っ張り出した朝日の事をいうのではなく、そんな講演依頼に応じてしまった自分の事をいってるのでしょうが、それにしても、講演に積極的であったようには見えません。
 暑い夏の盛りに、病み上がりの身を汽車に揺られて遠くの地をまわることには、かなりの覚悟がいったでしょう。それでも漱石には、いま是非とも語りたい現代日本の現状への強い思いがあったのです。・・・と格好よくいってあげたい気はしますが、実際には、大患で新聞連載小説を書けず、主筆の池辺三山らの気遣いで10月まで掲載を待ってもらっていることに文芸担当社員としての責任を感じている、漱石の律儀さの方が勝っているでしょう。少なくとも、是非出掛けて「語りたい」内容をこのとき持っていた、とはいえないようです。
 先にあげた11.7.26.長谷川如是閑宛書簡で、「和歌山講演」の希望を伝えた後に、こういっています。
 〜纏つた事を云ふには少し時間がかゝり候。〜 講演は二三種こしらへる積に候。必要なればそれを繰返してよきや、それから先達やつた「文芸と教育」という奴を、どこかで繰り返しても宜しきや。〜 土地及び聴衆の種類などにて出来る丈斟酌致し度心得に候故、場所及び会衆の性質など、早く分かれば好都合に候。
 「先達てやつた「文芸と教育」」については、後で触れますが、ともかく漱石は、近畿での講演会と聞いて幸徳事件に関連地である和歌山で現代日本の批判をしたい、しなければならない、といった思いに駆られて和歌山講演を申し出た、といったことではなかったようです。普通に、「和歌山などはまだ行った事がないから」行って見たかったのでしょうね。もちろん、職業的作家なのですから、凡人とは違い、「名所杯を捜る」といっても単なる観光ではなく予備取材であり、実際、和歌山での旅行体験も、2年後の小説『行人』の中に見事に取り込まれるのですが。(続く)