漱石 1911年の頃 4:事件と革命1

 いつもながら、きちんとした見通しをもって書いているわけではなく、断絶的な書き足しメモですので、読み返してみると繰り返しが大変多いですね。直しませんが。
 前回までは、漱石にとって「和歌山」とは、ということをみてきました。もちろん、深い見識をもった方々の重厚な評論に異を唱える気持ちは全くありませんが、軽薄な見地もまた許してもらえるならば、漱石はただ単にまだ行ったことがない観光地に行ってみたかった、といった程度のことだったのではないだろうか、少なくとも、そうもいえるのではないだろうか、ということでした。ただし、書き忘れましたが、講演のあと、(大逆事件ゆかりの田辺や新宮ではなく)高野山から伊勢の方へ行ってみたいと書いていた漱石でしたが、実際にはそういった観光はしていません。台風のせいで出発の予定を延期せざるをえなかったことと、大阪でまた入院することになったことによるのでしょう。
 さて、仮にそうだとすると、順序としては次に、それでは果たして当時の和歌山は、文豪に行ってみたいと思わせる程の観光地だったのだろうか、という話になるのですが、そのことはしばらくおいて、その前に、「大逆事件」の方を見ておかねばなりません。和歌山がどんな土地だったのかなどという問題以前に、漱石は、観光などに浮かれる心境になどなかった筈ではないでしょうか。
 前年1910年の6月に入院し修善寺大患で死の淵を見る漱石の半年間は、同じく6月に湯河原での逮捕され大逆罪で死刑となる幸徳の半年間に、ぴったりと重なります。「春三月縊り残され花に舞ふ」。赤旗事件という運命の偶然によって縊り残された大杉や荒畑らが、「狂うか自死か」という時代の冬に立ちつくす時、死の淵から生かし残された漱石は? 「絶望なるかな」、と荷風が、ゾラになれない身を恥じて自らを戯作世界に堕とす時、つとに「滅びるね」と呟いていたわが漱石は? と、やはりこういう文脈になるでしょうか。
 とはいえ、話を急がず、先ず、大逆と大患が重なる問題の半年間について、韓国併合石川啄木という補助線を入れて、簡単に年表を整理しておきます。
 
1910年5月 25日、宮下太吉ら逮捕。大検挙始まる。31日、検事総長、大逆罪事案と判断。
1910年6月 1日、幸徳、管野ら湯河原で逮捕。3日、「併合後の韓国に対する施政方針」を閣議決定。この日から大逆事件の記事解禁となり世間を驚かす。啄木、勤務先の朝日新聞社で事件の記事を集める。12日、漱石、「門」連載終わる。18日、漱石、長与胃腸病院に入院。
1910年7月 1日、啄木、入院中の夏目漱石を見舞う。31日、漱石、一旦退院。
1910年8月 6日、漱石、転地療養のため修善寺に行くが、体調悪化し床につく。22日、「韓国併合条約」調印。啄木「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」。24日、漱石、大量吐血し危篤に陥る。この月、啄木、「時代閉塞の現状」を執筆。
1910年10月 11日、漱石、東京へ搬送され入院。27日、生まれたばかりの啄木の長男が病死。
1910年11月 12日、大杉栄、東京監獄から出所。この日、エマ・ゴールドマンらが大逆事件抗議文。以後、NY等で抗議集会続く。
1910年12月 6日、フランスで社会主義者ら大抗議デモ。10日、大逆事件大審院第1回公判。この月、啄木、『一握の砂』出版。
1911年1月 1日、漱石、「彼岸過迄」の連載開始。18日、大審院、24名に死刑判決、一審限りで確定。24日、幸徳秋水、大石誠之助ら11名、死刑執行。25日、管野スガ、死刑執行。この月、啄木、弁護士平出修から幸徳の意見書を借用して書き写す。漱石、『門』出版。
1911年2月 20日漱石の留守宅に博士号授与の通知。21日、漱石、文部省局長に辞退の手紙。26日、漱石退院。以後も文部省より博士号授与強行あるも、断固拒否を貫く。

 
 10年7月、大事件の端緒だけを知って入院した漱石が、啄木の見舞いを(一度ならず)受けたとき、事件が話題にならなかった筈はなく、啄木の暗く激しい思いは、必ずや漱石に伝わった筈でしょう。そして翌年2月、思想を支配すべく有無をいわさず幸徳らを殺したばかりの強権が、返す手で、文学を支配すべく断りもなく強制的に博士号を授与しようとした時、漱石の強権への癇癪玉が爆発します。大逆事件や幸徳らについて直接言及した証拠は残ってはいませんが、日本の開化を強引に押し進めてきた強権と、日本の開化への徹底批判者である漱石の軌跡は、激しくぶつかる他ありません。漱石の反近代の胸の底には、幸徳らと同じ炎が燃えていたのです。・・・と、ここでも、そういう風に、格好良くいいたい所です。(続く)