漱石 1911年の頃 15:是公と三山3

 「アチッ、火傷するじゃないかっ」「でも今日のお茶は、ぬるう御座いませんでしょう」「いやあ先生、こりゃまた一本取られましたでげすな。でも、過ぎたるは何とか、文学も同じでげしょう」「そういう貴君の前月号は何だい、ねえ先生」・・・「ヌルいといえば、オンコチシンは、フルキをタズネテとかアタタメテとか訓みますが、ヌルメテもありますかね」「ヌルメようとヌクメようと、訓みなんてどうでもいいさ」「オンコチシンでもオタンチンでもパレオロガス、ってなもんでげすな」・・・「奥様、お集まりの方々はほんとにいっつも、訳の分からないことばっかりお話しで御座いますね。私なんかにはちんぷんかんぷん、ちっとも分かりやしません。そこへゆくと、あの奥様、支那人(ママ)の言葉は少しは分かりますね」「さうかい、分かるって何んな言葉が」「でも反物を買ってくださいって云って来るのを、○○が入らないよと云ふと、夫でも見るだけ、まあ見て下さいと云ひましたよ」「夫ゃお前支那語ぢゃない、日本語ぢゃないか」「でも丸っきり分からないと思ったら少しは分るんですもの、可笑しいぢゃ御座いませんか」「夫ゃいくら支那人だって日本語を使や分る筈だぁね」。
 脱線しましたがまるきりウソの話ではありません(11.6.13.日記など)。閑話休題
 さて、以上、漱石は、大逆の人となった幸徳とは違って人並み程度に天皇敬愛で、自分への権力は大の嫌いながら無政府主義者ではもちろんなく、非戦派幸徳と違って主戦派新聞人と関係深く・・・といったようなことでしたが、もうひとつ、幸徳はつとに『廿世紀之怪物帝国主義』の著者として知られています。
 前年6月、湯河原で幸徳は逮捕され、修善寺漱石は倒れます。以後幸徳は牢に繋がれて厳しい取り調べを受け、漱石は旅館の一室で生死の境を彷徨いますが、大患の宿となった菊屋旅館は、皇族も定宿にしているような高級旅館です。数室を確保してもらって医師看護婦家族が付き添い、関係者見舞い客も次々と訪れ滞在し、ようやく10月、雇った人足に特製ベッドを担がせ旅館の番頭付き添いで東京まで搬送されるのですから、全く下世話な話で恐縮ですが、相当な支払いになったでしょう。それを処理したのが朝日の池辺三山と、もう一人、中村是公でした。
 ところでその是公は、三山よりもっと昔からの、同窓同宿の親友ですが、ご承知のように、ちょうどこの時期(08年12月-13年12月)満鉄の総裁です。日露戦争後の06年に設立され、ロシアの権益を受け継いで、傀儡国家「満州」経営の中核を担うようになってゆく満鉄すなわち南満州鉄道株式会社については、改めて何もいう必要はないでしょう。関東軍と結び、鉄道だけでなくあらゆる事業を営み、それ自身「国家の如し」といわれるようになる満鉄、いうならば廿世紀之怪物帝国主義の最先端企業体の、その基礎を築いたのが中村是公です。
 とはいえ、この人がどんな人かは全く知りませんが、漱石に免じて大甘でいえば、たまたま初代台湾総督後藤新平にその力量を見出されたばかりに、植民地台湾や侵略基地「満州」で広範な事業を展開してその安定と発展に貢献したのであって、基本は実務に秀でた俊腕の高級官僚であり、当時としては、他の官僚より格別帝国主義イデオロギーに凝り固まった侵略主義者であったとはいえない、というようなことなのかもしれません。大甘にいえばですが。それでも、何しろ満鉄の総裁ですからねえ。もちろん、その人柄は大いに豪放でしかも繊細と伝えられていますし、漱石が、同窓同宿の是公を信頼できる生涯の友に選んだことについては、誰もとやかくいえません。友の地位や仕事に関わることは避け、私生活上の付き合いだけに限ったのであれば。
  前にも触れましたが、12年の夏、漱石中村是公と旅行に行きます。満鉄の事業は「悉く是公の敏腕によつて作り出されたものであった」(菊池寛)といわれたらしい実力総裁が、遠く本社を離れて半月間も「呑気な旅行」をしていることは少々驚きですが、それはともかく、費用を誰がどこかから出したのかは別とすれば、この旅行は、是公氏が夫人に隠れて馴染みの芸者を連れてゆく口実に漱石を誘ったという完全に私的な旅行です。けれども、09年、是公が漱石を誘ったおよそ40日間の満韓旅行は、総裁の招待旅行といったものでしょう。
 どんな旅行だったか、漱石の「満韓ところどころ」を見てみます。先ず冒頭部分。
 南満鉄道会社っていったい何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁も少し呆れた顔をして、御前もよっぽど馬鹿だなあと云った。是公から馬鹿と云われたって怖くも何ともないから黙っていた。すると是公が笑いながら、どうだ今度いっしょに連れてってやろうかと云い出した。
 満鉄総裁の親友で有名な文豪ですから、歓待される豪華な旅ですが、船が着いたその日から正反対の人々に出会います。クーリーは「苦力」、現地の荷役労働者です。
 船が飯田河岸のような石垣へ横にぴたりと着くんだから海とは思えない。河岸の上には人がたくさん並んでいる。けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚ならしいが、二人寄るとなお見苦しい。こうたくさん塊るとさらに不体裁である。
 漱石は是公から最初に旅行資金をもらっていたようですが、途中でも「銭が無ければやるよ」といわれていたようです。いずれにせよ満鉄のお金でしょう。
 奉天を去っていよいよ朝鮮に移るとき、紙入の内容の充実していないのに気がついて、少々是公に無心をした。もとより返す気があっての無心でないから、今もって使い放しである。
 この旅行全体の印象については、「満韓の文明」という文章で、新聞記者に語っています。
 此の度旅行をして感心したのは、日本人は進取の気象に富んで居て、貧乏世帯ながら分相応に何処迄も発展して行くと言ふ事実と之に伴ふ経営者の気概であります。満韓を遊歴して見ると成程日本人は頼母しい国民だと言ふ気が起ります。従つて何処へ行つても肩身が広くつて心持が宜いです。之に反して支那人朝鮮人を見ると甚だ気の毒になります。幸ひにして日本人に生まれてゐて仕合せだと思ひました。
 以上、引用だけで十分でしょう。少なくとも、「二十世紀之怪物帝国主義」といった感慨や怪物には荷担しないという気概は、全く感じられません。(続く)