漱石 1911年の頃 16:戦争と併合1

 ちょっと立ち止まっています。面倒になってきた、ということでもありますが(^o^)。
 漱石の研究者でも何でもありませんので、どうせ話半分でお読み頂いていると思いますが、もし真面目な研究者やファンの方々がお読みになれば、おそらくお叱りを受けるでしょう。行きがけの駄賃のように、深い文学的直観と充分傍証推理に基づく大塚楠緒子恋人説を眉唾幻想だといったり、自己批評性こそが諧謔味を支える猫と木曜会をごっちゃに旦那と高級幇間のお座敷だといったり、全くけしからん。開戦論の三山にサンザン世話になったとか満鉄総裁に金をもらったとかいう下世話な物言いで、戦争肯定だ帝国主義容認だというのは単純過ぎて呆れる。あるいはまた、「満韓を遊歴」した漱石が、「汚ならしい」「見苦しい」人々に比べて「日本人は頼母しい国民だ」「何処へ行つても肩身が広くつて心持が宜い」と書いているというが、同時に、横暴で「見苦しい」日本人の姿も見逃していないことや「支那人朝鮮人を見ると甚だ気の毒」と記していることを無視しているのは悪意の片手落ちだ。などなど。
 まあそういわれても、ごもっともというだけでどうということはないのですが、しかしどうもやはり、最初の目論見、大患と大逆事件を重ねて、和歌山講演にもってゆく道筋がすっきりしません。
 例えば、改めてこういうのはどうでしょうか。確かに彼は、開戦時には、幸徳らの非戦論をよそに、「天子の命ぞ〜吾讐北方にあり」などというショウモナイ詩を作りしましたし、その後草鞋を脱いだ三山朝日は、開戦せよ講和反対と世間を煽っていた新聞でした。けれども、子どもたちまでが「一列談判破裂して〜さっさと逃げるはロシヤの兵」とか「ロシヤ、野蛮国、クロパトキン」と戦勝に浮かれた時代はたちまち過ぎて、気が付けば戦費の重い負担が人々の肩にのしかかり、三山もすでに矛を収めています。漱石もまた、そんな時代の現実を知って、何度も触れた08年秋の『三四郎』の冒頭で、女と老人に車中会話をさせたのでしょう。女は、旅順から無事帰った夫がまた大連へ出稼ぎに行って、そのまま仕送りも途切れたと嘆き、老人は、自分の子も兵隊にとられて大陸で死んだと応じます。「いったい戦争はなんのためにするものだかわからない。あとで景気でもよくなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんなばかげたものはない」。そして翌日、広田先生が登場します。「いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね」「滅びるね」。
 少なくともこの時点で、漱石は、「大日本帝国」の日露戦争への道は、滅びへの道だったという思いを噛みしめでいたように見えます。だとすれば、以前はともかく今彼の前には、つとに孤塁非戦を主張していた「主義者」たちの姿が大きく見えてきていたに違いなく、だとすれば、自らの大患と時を同じくした幸徳らへの「大日本帝国」の弾圧に、他の作家や論者たち以上に大きな衝撃を受けたに違いなく、だとすれば「世界総体を相手に」「打死をする覚悟」を貫いて刑死した幸徳ら「主義者」の志を改めて深く受け止めた筈であり、だとすれば、やはり、幸徳処刑の夏の和歌山講演は、滅びに向かう「現代日本の開化」に真っ向対峙する、自らの「反開化」「反近代」の姿勢を鮮明にした講演だった、と、そういうことになるでしょうか。できればそうであってほしいものですが。
 例えば、10年夏、入院中の7月に書いたと推定されている断片があります。
 ○アル ism ヲ奉ズルハ可。他の ism を排スルハ life ノ diversity ヲ unify セントスル知識慾カ、blindナル passion[youthful]ニモトヅク。さう片付けねば生きてゐられぬのは monotonous ナ life デナケレバ送れぬと云フ事ナリ
 どうせ断片なので元の文からはっきりしませんが、一応、「あるイズムを奉ずるのはいいが、他のイズムを排斥するのは、多様な生き方を一つにしてしまおうということであり、多彩な色のない一色単調な生き方しか許されないということだ」、と読もうと思えば読めますので、ここに思想統制の批判、大逆事件への批判が込められているという向きもあるようです。事件への直接言及が見あたらないための苦し紛れの読み方なのかどうかは別として。
 だが同じ時期10.7.23.の東京朝日で漱石は、「イズムの功過」と題して、大体こんなことを書いています。「大抵のイズムとか主義とかいうものは」、過去の無数の事実を一纏めに束にして拵えた「一種の形」である。実生活上には、「型の応用」が便利なこともあるだろう。「しかし人間精神上の生活において、吾人がもし一イズムに支配されんとするとき、吾人は直に与えられたる輪廓のために生存するの苦痛を感ずるものである」。「その時わが精神の発展」は、「自己に真実なる輪廓を、自らと自らに付与し得ざる屈辱を憤る事さえある」。「過去はこれらのイズムに因って支配せられたるが故に、これからもまたこのイズムに支配せられざるべからずと臆断して、一短期の過程より得たる輪廓を胸に蔵して、凡てを断ぜんとするものは」、まことに「暴挙である」。「自然主義なるものが起って既に五、六年にな」るが、もとよりこの主義が悪いということではない。「けれども自然主義もまた一つのイズムであ」り、しかも「西洋に発展した歴史の断面を、輪廓にして舶載した品物である」。「自然主義者はこれを永久の真理の如くにいいなして吾人生活の全面に渉って強いんとしつつある」が、そんなことでは、いずれ破綻してしまうだろう。
 ということで、「アル ism ヲ奉ズルハ可。他の ism を排スルハ云々」といわれているのもまた、端的に、文学における自然「主義」であり、強権の「ism」すなわち「主義」弾圧への批判と読むのは、惜しいかな正しくないことになるでしょう。
 けれども、後人は先人を誤解する権利があります。もうひとつ別の、けしからぬ誤解をしてみましょう。(続く)