漱石 1911年の頃 19:箕面と和歌浦1

 どうも、ちょっと硬いいい方をしてしまいました。もちろん研究者の方々からの反証もあるでしょうし、「併合」について格別の思いがなかったようだといっても、前にも引用しましたが、「日本人は頼母しい国民だ」「何処へ行つても肩身が広くつて心持が宜い」、「幸ひにして日本人に生まれてゐて仕合せだと思」う一方、「支那人朝鮮人を見ると甚だ気の毒」ともいってますから、当時としては「人並み」よりはマシだったというべきかもしれません。というより、だからどうだというのだ、そういうことは作家としての評価とは別だ、という方が多いでしょう。
 ということで、それはそれとしておいて、この辺で一度、最初の関西講演に戻りましょう。
 11年の夏、漱石が、どういうわけか和歌山で行った、「現代日本の開化」という講演が、話の出発点でした。大変暑苦しい会場に集まった聴衆に感銘を与えたり感動させたりしたわけではなく、逆にさっぱりウケなかったらしいのですが、それでもその講演が、漱石の代表的な講演であるだけでなく、時代の代表的な講演の一つだとされるのは、漱石がそこで、現代の「開化」は人々を神経衰弱に追いつめる以外の何物でもないと、自らの「反近代」の姿勢を明確にしたからだ、とまあそんな風に見られるらしいことから話を始めたのでした。
 ところで、すでに見た通り、和歌山は関西講演の最初の土地ではありません。11年の8月。当初は9日か10日に発つつもりだったのですが、台風の影響か豪雨になります。(以下日記による)「午頃少し軽くなつたら午後から又どうどつと降る。是では折角の連絡も亦不通になると思つてゐると、社から小池君が来て、実は高原が今朝立つたが連絡が切れて静岡で留まつてゐるとの話。昨日の大阪からの電報に東海道線延着につき11日に御着あるよう10日に立たれたしとあつた。〜講演は12日からだから11日の8時半でも連絡さへつけば間に合ふ」。
 「高原」というのは朝日の記者になっていた熊本五高の教え子で、先発したつもりが足止めされてしまったようです。しかし天候は幸い翌日回復。「快晴新橋に行くと東海道全通とある。早速乗り込む。〜8時半つく」。ちなみに、東海道線は1889年に全通していますが、11年の時点では逢坂山のトンネルや丹那トンネルが未通で、大阪まで12時間かかります。夜着いたのですから疲れていると思うのですが、漱石は翌12日、「9時過箕面電車にて箕面に行く」と書いています。日記には「講演は12日からだから」とあったところ、実際の講演は13日からだったようで、日記の書き間違いか延期したのか私には分かりませんが、ともかく12日一日は、箕面観光です。
 箕面は、古くから大滝で有名な景勝地ですが、箕面有馬電気軌道が前年の10年から開業して、大阪から鉄道で行けるようになったばかりです。小林一三といえば、都市から郊外へ敷いた鉄道の沿線に住宅地を開発して勤め人の流れを作り出し、起点駅にターミナルデパートを置いて買い物の流れを作り出し、さらに、鉄道の先に「パラダイス」や「遊園地」といった大型施設を作って行楽観光の流れを作り出すという、近郊私鉄の総合経営モデルを作り上げた有名な企業家ですが、箕面はその小林一三の、スタート事業です。すぐに中心は宝塚歌劇団で有名な宝塚に移りますが、当時は箕面駅前に動物園や観覧車、公会堂が作られ、行楽客を呼び込んでいます。ただし漱石は、高原記者に案内されていたからでしょうか、そういった所には時間をとらずに大滝まで歩き、朝日新聞の保養施設に入って休憩します。
 翌年朝日に連載した「彼岸過迄」に、主人公が箕面を訪れるシーンがあります。手紙の中に写された手紙というややこしい仕組みなのですが、それは今関係ありません。
 今日朝日新聞にいる友達を尋ねたら、その友人が箕面という紅葉の名所へ案内してくれました。時節が時節ですから、紅葉は無論見られませんでしたが、渓川があって、山があって、山の行き当りに滝があって、大変好い所でした。友人は僕を休ませるために社の倶楽部とかいう二階建の建物の中へ案内しました。そこへ這入って見ると、幅の広い長い土間が、竪に家の間口を貫ぬいていました。そうしてそれがことごとく敷瓦で敷きつめられている模様が、何だか支那の御寺へでも行ったような沈んだ心持を僕に与えました。
 ちなみに、「彼岸過迄」の箕面だけでなく、次の「行人」でも、有馬温泉浜寺公園和歌浦と、関西の観光地が舞台に組み込まれています。朝日新聞からすれば、読者サービスの点からみて結構なことだったでしょう。講演旅行を設定し、観光地案内もした甲斐があったというものです。でもまあ漱石自身も、執筆のための取材というだけでなく、結構観光好きだったのではないでしょうか。
 今回は内容がなくて恐縮ですが、少し間があきましたので、ともかくこれでUPします。(続く)