漱石 1911年の頃 番外:見くびられる私たち

 前回は、乱暴なひとまとめを目指して虞美人草からはじめた以上、「こころ」まで行くつもりだったのですが、余りにも長くなりましたので、次の機会にまわすことにしました。あれもまた、乱暴にいえば、先生と私とKという男たちが、人生や人間の謎にさんざん悩みぬく一方、お嬢さん=奥さん、つまり女は何も知らないままが幸福だと勝手に決めて放置して終わる、という小説です。「なぜあれほど悩んでいたのですか。なぜ私に何も話してくれずに死んだのですか」「そんなことは考えないのが一番だ」「考えようにも智慧がないとお思いなのでしょう」「とにかく何も知らないのが仕合せだ」。女を見くびっているのです。
 ところで、百年ほど前の時代のことを書いている間に、こちらの世界では、様々なことが起こっているようです。遂には国連にまでレッドカードを示されされましたが、橋下とか石原とかいう人たちは、計算なしに放言しているのではなく、暴言でむしろ支持が増える、少なくとも減ることはないと、世間を見くびっているのでしょう。
 見くびるといえば、政府の、原発推進の姿勢が、ますます露骨になってきています。今月半ばに閣議決定しようとしている「成長戦略をまとめる産業競争力会議」の素案には、原発再稼働に向けて「政府一丸となって最大限取り組む」姿勢が盛り込まれているとのこと。
 選挙までは本音は隠し、支持率を高水準に保ったままで選挙を迎えようというのが、誰にもミエミエの現戦略でしょう。それでもなお、この時期に原発再稼働を推進する姿勢を露骨に出そうというのですから、再稼働反対の声などもはやないに等しいと見くびられたか、あるいは、まだその声は多少あっても、アベノミクスへの期待の前には取るに足りないと見くびられたか。まあ、どちらもなのでしょう。
 「タガをはずした金融政策による円安誘導」。それが万能策なら、今までの政府や日銀が当然採用していたでしょう。そうしなかったのは、問題点やリスクが大きいと考えられていたからです。現政府は、そんな躊躇を振り捨てて、賭けに打って出ました。世間の人々は、リスキーな政策が、一部企業や、外国人投資家も多い株主連中ではなく、実際に自分たちの生活レベルに目に見える好結果をもたらすのか、それとも自分たちは逆の結果に突き落とされるのか、固唾を呑んで見守っているところでしょう。
 ところが、馬主や厩舎の連中は、まだゲートが開いたばかりだというのに、予想紙マスコミの本命印もあって、世間はアベノミクスの勝ちに浮かれている、と見くびっているのでしょう。もはや原発不安の馬券など破り捨てたに違いない、と。
 さて、世間の人々は、彼らに見くびられたままでいるのでしょうか。(本編は続く)