漱石 1911年の頃 番外2:学問と縫針 

 事情で本編は先送りにし、番外で繋がせて頂きます。
 前回、「女を見くびっている」という、少し不穏当な表現をしましたが、あれも漱石いや「先生」の言葉の引用です。『こころ』については、後に別の形で取り上げるつもりですが、もともと「先生」は、女性の言動に問題があった時には、「必竟女だからああなのだ、女というものはどうせ愚なものだ」、と考える人でした。「私の考えは行き詰まればいつでもここへ落ちて来ました」。(余計なことですが。中高生にこの本を勧める方が多いようですが、私などは大変小心者ですから、この辺りで女子高生から反撥されたりしないか心配で、触らぬ神と推薦しないでおくか、推薦するなら前もって「いわゆる差別語と同様、現在から見れば差別発言であっても、作品の歴史的価値を尊重し、ママ読めばイイのです」と、責任回避しておくか、悩むかもしれません。嘘ですが。)
 ところが、ここで「見くびる」という言葉がでるのですが、ある日以来、「それほど女を見縊っていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです」。恋の力ですねえ。
 そうなると、先生には、Kの言葉が気になり出します。お嬢さんが学校を卒業したと聞いて、「Kは私に向って、女というものは何にも知らないで学校を出るのだといいました」ので、私は反論します。お、それはエラい。のですが、どう反論したかといいますと、君は「お嬢さんが学問以外に稽古している縫針だの琴だの活花だのを、まるで眼中に置いていない」ようだね、と「私は彼の迂闊を笑ってやりました。そうして女の価値はそんな所にあるものでないという昔の議論を〜彼の前で繰り返しました」、というのです。つまり先生によれば、女の価値は知識や学問ではなく(やっぱり「愚」ですか)、縫針だの琴だの活花だのにあるのですね。ところが「Kははじめ女からも、〜知識と学問を要求していたらしいのです。そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたものと思われます」。先生にいわせれば、Kの誤りは、「性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての男女を一様に観察していた」ことから来るのであり、そこが分からないから、Kは「依然として女を軽蔑しているように見えた」というわけです。男女は一様でなく立場が違う、すなわち、男は学問、女は縫針。以後、先生の考えは変わりません。
 ところが、「女というものは何にも知らないで学校を出るのだ」と軽蔑していたKもまた、お嬢さんに恋します。そして、「彼はある日私に向って、女はそう軽蔑すべきものでないというような事をいいました」。先生同様、女の価値は縫針や活花にあるということが、Kにも分かったのでしょう。めでたしめでたし、というて何がめでたいのやら。
 さて、今日帰りに寄った本屋で、集英社文庫の『こころ』が目に付き、本文以外の部分(解説・菊田均/鑑賞・吉永みち子)を、パラパラと立ち読みしました。他の本も買いましたし「座り読みOK」の本屋さんですので許してもらえるとしても、400円でお釣りがくる本を立ち読みせずともと思った時には、もうパラパラ読み終えていたので、失礼ながら棚に戻しましたm(_ _)m。 で、パラパラなので不正確ですが、吉永みち子さんが大体こんなことをいっておられました。「以前は、残された奥さんの儚さが印象深く、どうなってゆくのかと思いましたが、改めて読み直してみると、どうしてどうして。ぐだぐだ悩む先生や私などよりも、女であるお嬢さん=奥さんの方が、はるかにスケールが大きいことに気付きました。大丈夫」、と。(続く)