漱石 1911年の頃 24:イプセンとイノセント3

 「若し日本の婦人がノラを見て所謂覚醒したと言ふ様な事を言ふ様になつたら余程考へものである。〜然し今の所先ず其の心配は無用だと信ずる。ノラを生囓りして覚醒する様な婦人は無い事と安心して差支あるまい」。漱石は、そういったのでした。けれども、ファンの多い漱石のことですから、これは反語的な発言なのではという向きがおられるかもしれません。「もし人々が、あの時の覚醒を忘れず原発全廃などといい続けたら余程考え物ですが、しかしその心配はご無用です。今や何とかミクスとかいう飴を生齧りして、原発推進の党を支持しない人は滅多にいないと安心して差し支えないでしょう。」
 「覚醒」は困るという漱石の「婦人」観は反語か本音か。それを確かめるには、ちょっとズームを引いて見ることが必要かもしれません。
 とはいえ、紙幣にまでなった大文豪ですから、漱石については、作家論も作品論もゴマンとあるでしょう。何度も書いてすみませんが、私はまるきりの素人で、ただ図書館から借りてきた日記や手紙の巻をパラパラし、後は、大文豪で著作権切れという好条件もあって、かなり細かいものまで公開頂いている青空文庫さまさま(m(_ _)m感謝!)を利用させて頂きながら、誠に勝手な思いつきを書いているだけですので、畏れ多くも漱石という人や漱石の作品全体を俯瞰するなどというようなことはできるわけがありません。
 けれども、もしもここで、逆に開き直ることをお許し頂けるなら、素人だからこその強みもあるかもしれません。研究者の方々やファンの方々から無視冷笑されることは、もとより最初から承知の上とはいえ、読んでいない物や忘れた物もひっくるめて、ともかく漱石の団子を作ってしまうという、誠に乱暴な話なのですが。
 そこで先ず、一切をまるめた団子のお手本である辞書を見てみましょう。例えば・・・夏目漱石は「心理的手法で近代人の孤独やエゴイズムを追求、晩年は「則天去私」の境地を求めた」(大辞泉)。なるほど、さすが辞書ですね。そこで、「近代人の孤独やエゴイズムを追求」ということばを手がかりにお借りして、こちらでもアレンジ料理を作ってみましょうか。
 先ず、「近代人」とは、「現代日本」という「開化」の時代を生きる人であり、といっても車引きや坑夫や松山人ではなく、中上流階級に属し、東京圏に住んでいる「男」です。さて、その男は、「孤独やエゴイズム」という問題、つまり他人の中の自分、いうならば人間関係の悩みを抱えています。和歌山講演「現代日本の開化」で漱石は、開化の時代の人間は神経衰弱に陥る他ないといいましたが、漱石の小説では、「開化の時代」の都市に生きる中上流階級の男が、人間関係に悩んでいるうちに、次第に「神経衰弱」になってゆく、そのような男の悩みと行動が「心理的手法によって」描かれているようです。
 けれども、一体なぜ、「開化」の時代には、人間関係が難しくなり、「孤独やエゴイズム」に悩むことになるのでしょうか。そこに「日本の婦人」の「覚醒」の危機は、どのように関わっているのでしょうか。
 そんな大問題を、一つの団子にしようというのですから乱暴ですが、とにかく先ず、漱石が、いよいよ本格的な職業作家として歩み出した、朝日連載第一作を、ネタにしてみたいと思います。まだ「心理的手法」も完全でなく「近代人の孤独やエゴイズムを追求」が「神経衰弱」に行く前の作品なのですが。
 といっても既に、主人公は、約束通り、「東京圏に住む中上流の男」たちです。で、約束通り、男は煩悶しています。ただ、まだ文体が古くて、「開化の時代」の悩みに合っていないのが玉に瑕ですが。
 「宇宙は謎である。謎を解くは人々の勝手である。しかし疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは、解けぬ謎を押しつけられて、煩悶するために生まれるのである。」
 悩みの種は「宇宙」そのもの「人生」そのもののようですが、有り体にいえば、「兄弟さえ謎」「妻も子も、かく観ずる自分さえも謎」。実質、謎は専ら人間関係、自他関係にあるようです。では何故男にとって、まわりの他人や自分までもが「謎」になるのでしょうか。もちろんそれは、「疑う」からです。「疑えば」誰も彼も自分さえもが「謎」になります。じゃ、疑わなければいいわけですが、そうはゆきません。「近代人」の男は、疑わないことができない。ここに問題が発生します。
 けれども、もう一歩進めるなら、「疑う」とはどういうことなのでしょうか。それは「考える」ことに他なりません。我あるゆえに「考える」、「考える」から「疑う」、「疑う」から「煩悶する」。これが、開化の時代の「男」、都市知識人階級の男の、避けられない運命とになったのでした。
 さて、いま引用したのはまだドラマが始まる以前ですので、男はまだ、親兄弟妻子自分を同列に置いて、呑気に煩悶を楽しんでさえいますが、やがてドラマが始まると、親兄弟は脇役となって、「男」の悩みは専ら「女」と「自分」に向かいます。漱石ならずとも、多くの読者を楽しませる小説で「男」が「煩悶」するのは、「女」と「自分」の関係だと相場が決まっています。ということで、辞書をアレンジしますと、漱石の小説とは、「都市に住む中上流階級の男が、女と自分の関係を考え、疑い、悩む姿を、心理的手法で描いたもの」とでもいえるでしょうか、さしあたり。
 こうして、連載第一作「虞美人草」でも、ドラマが始まると「女」が登場します。面倒だから、まとめ紹介しますが、先ず、先ほどいろんな「謎」について悩んでいた甲野さんお気に入りの糸子。「家庭的の婦女」はいいとしても、何と「男の用を足すために生れたと覚悟をしている女」と書かれています。ま、堅実ないい「奥様」になるでしょう。次に甲野さんの妹である藤尾。これはまた、そんな世界を軽蔑して詩的な世界に身を置こうとする、「我(プライド)」をもった美女、ヒロインです。ドラマは、藤尾が小野さんという男に恋をすることから動き出します。穏やかな中上流階級の世界に「劈痕(ひび)」がはいるのです。
 甲野さんは、お節介にも妹の藤尾を、小野さんではなく、糸子の兄である友人のところに嫁がせたいと思っています。
 「御前宗近へ行く気はないか」
 「ええ」
 「ない? どうしても厭か」
 「厭です」
 「そうか。―そんなに小野が好いのか」
 藤尾は屹(きっ)となる。「それを聞いて何になさる」
 「何にもしない。私のためには何にもならない事だ。ただ御前のために云ってやるのだ」
 「兄さんは兄さん。私は私です」

 おお、格好いいじゃないですか。さすが「開化の時代」のヒロインです。
 ところが実はもう一人、小夜子がいます。小野さんの恩ある師の娘で、小野さんは藤尾と小夜子、二股をかけているのです。
 漱石は、地の文でいいます。藤尾の恋によって、「小野さんの世界にも劈痕(ひび)が入る。作者は小夜子を気の毒に思うごとくに、小野さんをも気の毒に思う」。
 作者が「気の毒に思う」のは二股男小野さんと恩師の娘小夜子であって、藤尾は、堅実な黙契世界に劈痕を入れる、魔女ヒロイン扱いです。「藤尾のような女は今の世に有過ぎて困るんですよ。気をつけないと危ない」。「藤尾が一人出ると昨夕のような女を五人殺します」。
 そしてドラマは、男たちが寄ってたかって、世界に劈痕を入れた魔女藤尾を自殺に追い込み、めでたしめでたしとなって終わります。
 書き忘れましたが、二股小野さんが、結局藤尾を裏切って妻に選ぶ小夜子は、何事があってもただ泣くばかり、小野さんを恩義で縛って娘との結婚を迫る親を頼りに貰ってもらうという、実に情けない女ですが、まあ、従順一方の妻にはなるでしょう。
 結局、「虞美人草」という連載第一作小説は、「男の用を足すために生れたと覚悟をしている」「家庭的な」糸子とただただ親と男に従う「従順一途」なだけの小夜子を、それぞれ中上流階級の家庭に収めるために、中上流知識人の男たちが手を結んで、藤尾という「危険」な女を排除した、というお話です。このお話を漱石は、愛を貫こうとした藤尾の悲劇でさえなく、魔女藤尾によって「劈痕」を入れられた「気の毒」な関係を危うく修復して、中上流の家庭世界が守られたという、勧善懲悪のお話として描いたのでした。
 改めていうまでもありません。詩を解し「私は私です」と宣言する藤尾は、「ノラを生囓りして覚醒する様な」危険な「新しい女」です。「開化の時代」を感じつつ、このようなヒロインを造形した漱石の筆は確かですが、それだけに漱石は、藤尾には自死を、それも悲劇ではなく魔女としての死を与えねばならなかったのでした。
 思わず長く書いてしました。しかし、「イプセンとイノセント」ももう最終の「3」ですから、無理にでも、漱石の小説全体を一つの団子にするなどという無茶をしなければなりません。大急ぎでやっつけましょう。
 ということで元に戻ります。漱石の小説全体を超乱暴に丸めていえば、「近代人」実は都市中上流階層の「男」が、「女」と「自分」を巡って「煩悶」するというお話であって、「煩悶する」のは「疑う」からであり、疑うのは「考える」からだと書きました。けれども、より正しくいえば、「煩悶」は、考えのループによって生まれます。
 ゲームの理論は、「相手もまた考える」ということを前提にしています。男が煩悶に追いやられるのは、男が考えるだけでなく、女もまた考えるからに他なりません。開化の時代、「孤独とエゴイズム」の煩悶は、考える男と考える女のゲームから生まれます。
 さて、大患の中断を経て、漱石は満を持して連載を再開します。もしも、大患だけでなく、あるいは啄木と話した大逆事件が、あるいは和歌山講演が、その他韓国併合でも辛亥革命でも、または楠緒子の死でも雛子の死でも、又はイプセンでも須磨子でも、らいてうでも草平でも、この時期の何かが、他に増して漱石に大きな衝撃を与えたとするなら、作家は作品の中にこそ、その痕跡を残すことでしょう。もちろんここでは、そういうことを検証するゆとりはありません。ともかく、12年のはじめから再開された小説が「彼岸過迄」です。
 そこに、「須永の話」という章があります。須永とという「男」は、千代子という「女」とのやりとりを通して、悩み、また考えを重ねるばかりで、永遠に女を「我が物」にはできません。千代子もまた、「考える」女だからです。女の一つ一つのことばや行動は、どんな「考え」から来ているのか。男が考え、女が疑い、共に悩まなければならないゲームに引き込まれます。例えば、こんな調子です。
 「あなたは卑怯だ」
 「なぜ」
 「なぜって、あなた自分でよく解ってるじゃありませんか」
 「解らないから聞かしておくれ」
 「それが解らなければあなた馬鹿よ」
 「僕は極めて因循な男なんだから。その点で卑怯だと云うなら云われても仕方がないが」
 「そんな事を誰が卑怯だと云うもんですか」
 「しかし軽蔑はしているだろう。僕はちゃんと知ってる」
 「あなたこそあたしを軽蔑しているじゃありませんか。あたしの方がよっぽどよく知ってるわ」
 「あなたはあたしを学問のない、理窟の解らない女だと思って、腹の中で馬鹿にし切ってるんです」
 「それは僕をぐずだと馬鹿にするのとお互い様だろう。しかし僕は徳義上の意味で卑怯なふるまいをした覚はないはずだ」
 「じゃ卑怯の意味を話して上げます」と云って千代子は泣き出した。
 「あなたはあたしを御転婆の馬鹿だと思って始終冷笑しているんです。あなたはあたしを……愛していないんです」
 「そりゃ千代ちゃんの方だって……」
 「そんな事は御互だと云うんでしょう。そんならそれで宜うござんす。何も貰って下さいとは云やしません」
 「ただなぜ愛してもいず、細君にもしようと思っていないあたしに対して……」
 「御前に対して」
 「なぜ嫉妬なさるんです」と云い切って、前より劇しく泣き出した。
 「あなたは卑怯です、徳義的に卑怯です。あなたはあたしの宅の客に侮辱を与えた結果、あたしにも侮辱を与えています」
 「侮辱を与えた覚はない」
 「あります。言葉や仕打ではなく、あなたの態度が侮辱を与えているんです。あなたの心が与えているんです」
 「そんな立ち入った批評を受ける義務は僕にないよ」
 「男は卑怯だから、そう云う下らない挨拶ができるんです」
 いやあ大変ですねえ。流石に漱石、皆様多分身に覚えのあるような会話をうまく作っています。しかしこのような会話の大変さは、互いに同じ平面で話しているからこそ生まれます。
 さて、こうしたゲームに疲れ果てたとき(引用の順序は違っていますが)、男は、ふと、ある女に気付きます。・・・さらに少し長い引用をお許しください。
 (ゲームの場であった)鎌倉から帰って、始めてわが家の膳に向った時、給仕のために黒い丸盆を膝の上に置いて、僕の前に畏こまった作の姿を見た僕は、今更のように彼女と鎌倉にいる姉妹(千代子と妹)との相違を感じた。〜僕の前に出て畏こまる事よりほかに何も知っていない彼女の姿が、僕にはいかに慎ましやかにいかに控目に、いかに女として憐れ深く見えたろう。彼女は恋の何物であるかを考えるさえ、自分の身分ではすでに生意気過ぎると思い定めた様子で、おとなしく坐っていたのである。
 〜その時始めて、自分の家に使っている下婢の女らしいところに気がついた。愛とは固より彼女と僕の間に云い得べき言葉でない。僕はただ彼女の身の周囲から出る落ちついた、気安い、おとなしやかな空気を愛したのである。

 中上流の男ですから、「下婢」に対する「愛」などはもとよりありえませんが、そんな「身分」をわきまえ、ただただ「慎ましやか」で「控目」で「おとなしやか」に給仕するだけの「下婢」の姿が、「女として憐れ深く見えた」のでした。
 やっぱり作が――作がというより、その時の作が代表して僕に見せてくれた女性のある方面の性質が、想像の刺戟にすら焦躁立ちたがっていた僕の頭を静めてくれたのだろうと思う。〜
 白状すると僕は高等教育を受けた証拠として、今日まで自分の頭が他より複雑に働らくのを自慢にしていた。ところがいつかその働らきに疲れていた。何の因果でこうまで事を細かに刻まなければ生きて行かれないのかと考えて情なかった。僕は茶碗を膳の上に置きながら、作の顔を見て尊とい感じを起した。
「作御前でもいろいろ物を考える事があるかね」
「私なんぞ別に何も考えるほどの事がございませんから」
「考えないかね。それが好いね。考える事がないのが一番だ」
「あっても智慧がございませんから、筋道が立ちません。全く駄目でございます」
「仕合せだ」

 もちろん、「近代人」つまり「中上流男」の漱石ドラマでは、「下婢」などは、端役以上には絶対なりえません。けれども、この項に「イプセンとイノセント」という語呂合わせの題を付けた理由はお分かり頂けると思います。
 長くなりすぎました。ここで一度切っておきましょうか。
 結局漱石の描く「近代人」つまり「都市中上流知識人の男」にとって、理想の「妻」とは、中上流家庭にふさわしい全ての資質をもちながら、こころだけは一生「下婢」のようにある存在だったのかもしれません。「考えないかね。それが好いね。考える事がないのが一番だ」「仕合わせだ」。
 ただ漱石は、この開化の時代に、それはアクロバットでしかありえないことを、諦念と共に噛みしめていたのでしょうか。
 漱石ファンの女性は多分怒るでしょうか。もちろん、漱石にではなく、私にですが。(続く)