下町はえらい2

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 (いくら無謀でも、まだ観てもいないの映画のことを論じるつもりは毛頭ありませんが、話の都合でちょっとだけ触れさせて頂きます。)
 町山智浩氏は、「風立ちぬ」の主人公は「モノ作りに取り憑かれ妄想世界に生きるオトコノコだ」といった主旨のことを話しておられます。卓見でしょうが、あとの半面があるようで、宮崎氏は、「飛行機だけに夢中になっている話はつくりたくなかったんです」、といっておられます。
 「宮崎さんは今度の作品では、かなりしっかりと昭和史を描かれたなあ、と思いました。
 「〜それ抜きにして、飛行機だけに夢中になっている話はつくりたくなかったんです。
 「なるほど。
 「かといって、海軍陸戦隊が上海事変で活躍しているシーンが出てくるとか、そういうふうには描きたくなかった。
 「この映画は堀越二郎びいきでつくった映画ではないんです。〜(描きにくい)零戦だってぼくは描きたくないと思っていました。」

 零戦でなく零戦の時代を描きたいが、零戦が活躍しているシーンは描きたくない。それどころか零戦だって描きたくなかった。ご自分でも、「ほんとにややこしいところに入って行かねばならない」といっておられますが、確かにややこしいですね。
 ところで、宣伝されているように、映画の主人公は、零戦を設計した堀越二郎と「風立ちぬ」の作者堀辰雄をミックスして、宮崎氏が作ったキャラですが、しかし、宮崎氏は対談で、この二人だけではなく、「親父が若干混じり込んでおりまして」、といっておられます。
 このご父君は、宮崎飛行機という会社を事実上経営されていた方なのだそうで、宮崎氏は「町工場の延長」と謙遜しておられますが、大勢の従業員で零戦の風防などを製作して、中島飛行機へ納入していたとのこと。何しろ戦争中ですから、「つくればつくるほど金になるから、ソレヤレッていうんで(工場を)大きくしていった」。当然、「戦時中が一番経済的に潤っていた」、というのですから、「欲しがりません勝つまでは」と欠乏生活にあえいでいた一般庶民から見れば、うらやましくもうらめしい(?)お話です。
 ところで、「風立ちぬ」という映画について、誰もが問題にするだろうことがあります。前回みたように、基本的な立ち位置が「反戦」であるらしい宮崎駿氏が、それなのに戦争道具である戦闘機の設計者が主人公の映画を作るというのはどうなのか。単純化すれば、そういうことです。もちろん「堀越二郎びいきでつくった映画ではないんです」とのことですが、それでも、彼を批判的に描いた映画ではないようですし(と、観てなくて憶測でいうのですがm(_ _)m)。
 このような監督への問いは、形を変えれば、堀越二郎その人への問いになります。画期的な戦闘機である零戦の設計に打ち込んだ彼の、いわゆる「戦争責任」はどうなのか。
 が、さらにこの問題は、ソレヤレと戦闘機の部品を作って大儲けしていた宮崎氏のご父君にも、無関係ではありません。宮崎氏は実際、若い頃ご父君と「戦争責任について口論」したことがあるのだそうです。(2続く)