下町はえらい2−2

 少年時代から宮崎駿氏は、「あのバカな戦争をやったせいで起きた酷い話」をいっぱい聞いり読んだりしたそうです。空襲にまつわるいろんな酷い話。また、日本軍が「中国へ行って酷いことをやって、南方に行っても酷いことをやって、多くの日本の兵隊さんが餓死した」ことなどなど。それで、戦闘機の部品を作って大儲けしていたご父君に、「戦争責任」について詰問されたのでしょう。ところが、ご父君は、そんなものは感じない、「戦争をしたのは軍部であって、自分ではない」、といわれたとのこと。
 そのことばに駿氏が納得されたのかどうかは分かりません。多分その場では、むしろ反撥されたでしょう。けれども今は、そう単純ではないようで、というか、ある意味、今の時点での答えが、今度の映画だったように思われます。いやいや、映画を観もしないで、そんな先走りは取り消しますがm(_ _)m。
 ご父君の側からいえば、「戦争をしたのは自分ではない」というのはどういう意味だったのでしょうか。監督によれば、ご父君は「(旧制中学)時代から、浅草に入り浸って、遊びほうけていた人」で、総力戦を挙国一致滅私奉公で勝ち抜こうと、真剣に戦闘機の部品作りに日夜励んだ、といった人ではなかったとのこと。軍からせかされるままに、戦争道具をせっせと作って儲けながらも、気持ちの上では、自分を戦争の外に置いていたのでしょう。第一、「この戦争は負けだよ」といっていたそうですから、非国民(^o^)ですね。「でも自分の家族は大事にしようと思って、それを最後まで貫きました」。
 ちなみに、半藤氏のご父君も、太平洋戦争が始まったその日に、「この戦争は負けるぞ〜」なんて言うような人だったらしく、「ですからおまわりにのべつ踏み込まれて、しょっちゅう警察に連れて行かれていました。区議会議員という名誉職をやっていましたから、すぐ帰されてくるんですけどね。」
 宮崎監督はいいます。描きたかったのは、「世界がいろいろ動いていてもあまり関心をもってない日本人。つまり自分の親父です。」「ぼくはやっぱり親父が生きた昭和を描かなくてはいけないと思いました。」
 戦争の時代に戦闘機の部品をせっせと作っても、あるいは、区会議員として大政翼賛の一翼を担っても、オカミと「軍部」が負ける戦争をしているだけだといった態度であの時代を生き抜いた人々に、戦争責任は問えるのか問えないのか。そしてまた、私たちに問う資格はあるのかないのか。そういった「むつかしい」問題にここで踏み込むことは全くできません。
 ともかく、宮崎監督は、堀越二郎についても、こういうのです。「(最初に作った戦闘機)〜のなかに堀越のいろんな理想がすべて込められていると思って、つくるところは映画に入れました。でも、それが活躍するところは全く描かなかったです。というのは、堀越さんの作ったその飛行機はすべて中国大陸で活躍している」。「ですが、中国大陸の上で空中戦をやって戦果を上げた、などというような映画はぜったいつくりたくないですからね。でも、あの人は戦闘機をつくりたいんじゃなくて、飛行機をつくりたかった人だ、ということは確信しています。」
 町山氏もいうように、「戦争好きどころかむしろ反戦だが、でも戦闘メカ<命>」というのは、オトコノコの心をもったクリエーターの宿痾かもしれませんが、ガンダムでもエヴァンゲリオンでも、戦闘は巻き込まれた宿命の引き受けであり、後者では戦争の大義も敵も、敵を倒せばどうなるのかさえあいまいなままです。その庵野氏を堀越の声に起用した宮崎監督はいいます。「けっきょく堀越二郎という人の正体はつかめませんでした。まあ、つかむ必要もないとも思った」。それでも、堀越二郎という人は戦争の大義や行方には関心がなく、たとえ負け戦であったとしても、ともかく「飛行機をつくりたかった人だ」というのが、宮崎氏の確信のようです。モデルとしては、「ぼくは堀辰雄堀越二郎と自分の父親を混ぜて映画の堀越二郎をつくってしまいました」、ということですが、さらにいえば、宮崎駿ご当人も庵野秀明氏も、そこに括り込まれているのかもしれません。
 などと、観てもいない映画に対して、よくもまあ勝手な言いがかりをつけたものです(^o^)。こうなれば、観てこないわけにはゆきまえせんね。観ると全く予想がはずれたりして(^o^)。
 けれども本題は、もちろん「風立ちぬ」でも宮崎監督でもありません。これをステップとして、「下町はえらい」の(3)に、ジャンプさせて頂きます。(続く)