下町はえらい3

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 さて、そういうわけで、総力戦の銃後で武器をフル製造しても翼賛体制の一翼を担っても、「庶民」は免責されるようですから、例えば大陸で残虐行為をしても、命令で強いられた「庶民」兵士は免責されるでしょう。責任は、ひとえにオカミにあり軍部にあります。いやしかし半藤氏は、オカミのトップ昭和天皇も軍部のトップ山本五十六司令長官も基本的に免責しますし、また例えば特攻攻撃は絶対美化できない愚行だが強いられた隊員の特攻行動は讃えられるべきであり、空襲の焼死者を犬死というのはいいが特攻隊員を犬死にというのはけしからん、などといわれますのでややこしいのですが、今はそのようなことが問題なのではありませんのでやめます。(といいながら、誤解を避けるためにちょっと補足:特攻隊については他でももちろん書かれていますが、『安吾さんの太平洋戦争』でも半藤氏は、「私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に賛美する」という安吾の言葉への共感を記しています。一方、安吾が空襲の焼死者について、「犬と並んで同じよう焼かれている死体もあるが、それは全くの犬死にで、〜焼き鳥のように〜並べられている」といった描写をしているのを、「このリアリズム!」と褒めつつ、特攻隊については、こう書かれています。「いわゆる左翼史観にある「犬死に論」にはとうてい与するわけにはいかぬが、さりとてあんまり精神的な高揚すなわちヤマトダマシイを賛美するのはいかがなるものかとも思う」。大空襲の中を必死で生きのびた年代の方に失礼ですが、すぐ後で氏は、戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』を再読して涙を流したと書いておられます。例えば「わだつみ会」の「史観」を考えれば、「いわゆる左翼史観」と「犬死に論」を単純に結びつけるのは、失礼ながら手垢のついた言いがかりではなかろうかと思いますが、ともあれ本文に戻ります。) 
 「私は美土里なんです。」「ああ子どもの頃、鮎川までよく鮒釣りに行きましたよ。私の実家は栗須ですが。」「あの辺りもすっかり変わりましたね。」とか何とか。
 突然何のことかと思われるでしょうが、当然です。たまたま地図から、某県某市(群馬県藤岡市)の地名を拾っただけですから、地元の人以外には、誰にも分かりません。ところが、
 「宮崎さんはもしかしたら、零戦ではなく、堀越の生きた昭和史を描こうとされたのではないかとも思ったのですが。」「そうかもしれません。」
 でも、監督はいいます。「堀越二郎という人の正体」は「つかむ必要はないと思った。ですから、出身地が分かっても調べに行かない。その風景は見に行かない。」というのも、「堀越二郎の評伝を作ったってしょうがないと思った」からだそうです。
 で、どうされたかというと、「それで堀辰雄なんです。そこに親父まで混ざってきて〜」。
 ということで、堀越二郎の「出身地」は見にも行かなかった代わりに、堀辰雄と宮崎氏と、それから半藤氏のご父君の「出身地」については、実に懐かしく楽しげに語り合われます。もちろん映画では、丹念に丁寧に懐かしく細かく描かれたそうですが、それはどこかといえば・・・
 「いまは町名がなくなりましたが、向島洲崎町で堀辰雄は育っています。東京スカイツリーのちょっと北あたり」。「隅田川がまだきれいだった頃ですね」。半藤氏は、「私の親父」も「向島運送業をやっていた」んです。そして宮崎氏、「ぼくのオヤジが両国の生まれ育ちなんです」。
 「美土里?、栗須?、鮎川って?」と聞く人はあっても、というか誰もが聞くでしょうが、「向島?両国?隅田川?」と聞く人はいないでしょう。何しろ「東京スカイツリー」ですからね。
 そう、「下町」です。といってもそこいらの下町ではなく、誰もが知っている「東京の下町」。
 ところで、映画は関東大震災のシーンから始まるそうですが、浅草十二階が傾く大激震とその後の大火災によって、下町は大きな被害を出します。当時の下町の「父」たちは、あるいは火災から逃げまどい、あるいはまた朝鮮人を殺したりしたのでしょう。非常時に必死で家族と町を守ろうとしての事件ですから、それもまた免責されるのでしょうか。
 20数年後、戦争最後の年の3月。アメリカ軍は、大震災の徹底的な事前検証で下町が特に火災被害に弱いことを知り、軍需産業の生産拠点となっている(という理由をつけて)町工場や住宅が密集する深川、本所、浅草、日本橋を標的として、夜間、超低空で焼夷弾を絨毯投下し、何万という「下町の庶民」を焼き殺します。中学生の半藤少年が、無数の死体の転がる中を逃げまどい「辛うじて生きのびた」のは、この日のことでした。(続く)