下町はえらい3−2

 さて、「零戦の開発がスタートした」年であり堀辰雄が『風立ちぬ』を書いた年である1937(昭和12)年。関東大震災で壊滅した東京は、今も変わらぬ都会優先、景気優先政策により、力強く急速に復興しています。
 半藤: 〜昭和十二年というのは、日中戦争が始まった年ですが、いわゆるGNP,国民総生産は近代日本最高を示しはじめていたんです。
 宮崎: ああ、そういう年なんですね。
 半藤: 〜二・二六事件の翌年ですから、裏側では軍部がだんだん強硬になりはじめていましたがね。私たち国民、民草は、そういう動きはつゆ知らず、いい時代を謳歌していたと思います。浅草なんか最高に楽しいところでした。
 宮崎: はい。親父なんか二回も結婚しているのですからね。〜 〜
 半藤: 昭和十二年というと、私は七歳くらいです。私たち下町の悪ガキには、こんなに楽しい時代はなかったです。
 「最高に楽しい」「いい時代を謳歌していた」男たち。「こんなに楽しい時代はなかった」という子どもたち。いやあ、うらやましいですね。
 ただし、下町を含む帝都の人々が「いい時代を謳歌」するに至るその「裏側」で、いわゆる「革新将校」たちが31年の三月、十月など何度もクーデタの試みを繰り返し、遂に36年帝都で二二六事件を起こしたことが、対談でも指摘されています。
 決起したのは、農村出身の兵士たちと起居を共にする若手将校たち。彼らは兵士たちが何に心を痛め、除隊後どんな生活に戻ってゆくかを知っていました。1930-31年昭和恐慌、1933年三陸津波、1934-35年昭和東北大飢饉。下町の人々が最高に「いい時代を謳歌していた」その「裏側」の軍部の動きの、さらにもうひとつ「裏側」には、惨憺たる状況に追い込まれていた飢餓地帯の農民やその家族がいたのでした。
 もしかすると、「最高に楽しく」遊んだ男たちの相手は、東北から身売りされて来た娘たちだったかもしれません。(写真は、ここから拝借)。後に召集を受けて入隊したご父君のことばを、監督は伝えておられます。「「軍隊のメシはもう不味くて食えなかった。〜それでも喜んで食うやつがいて呆れ返った」。「呆れ」られたのは、おそらく軍隊ではじめて米のメシを食べられた貧農出身の兵士だったでしょう。
 (補足:ただし、帝都下町の人々と地方の貧窮農民たちとだけを対比させるのは、話の都合上の図式です。例えば、大震災で殺された大杉栄伊藤野枝は亀戸の労働者街に移り住みますが、雷鳥などに比べれば庶民的だったとはいえ、同じく震災で逮捕され獄死した金子文子などとは違って女学校出で肉体労働をしていない野枝は、銭湯で裸になったとたんに女たちから冷たい視線と罵声を受けます。「下町」はまた都市窮民のたまり場でもありました。
 監督はいわれます。描きたかったのは、「世界がいろいろ動いていてもあまり関心をもっていない日本人。つまり自分の親父です」。あの「楽しい時代」に日常生活を送った「人たちが生きていた世界」を描きたかったのだ、と。「当時日本人のほとんどは、そうでしたよ。」という半藤氏のことばを受けて、監督は続けます。「まさにほとんどの人が刹那的でした。それで、そういうふうに描くしかないと思ったのです。〜ぼくはやっぱり親父が生きた昭和を描かなきゃいけないと思いました。」
 宮崎監督が描こうとした帝都の人々は、「不味くて食えな」いメシを「喜んで食う」貧農の生活にも、「大儲け」軍需をもたらした軍部の戦地での残虐行動にもほとんど関心をもたずにいたのでしょうか。そして、関心をもたなかったということで、歴史から免責されるのでしょうか。
 もちろん、単純に非難しているのではありません。当時、都会優先、景気優先の踏み台となって苦しむ農村に関心をもたずに復活帝都の繁栄を謳歌する人々を、いま、東北の津波にも原発事故にも関心が薄れ、景気重視の政府のもと首都オリンピックに浮かれている私たちが非難したり批判したりする資格はありません。(続く)