メモ 1

 こんな浮き世から、ちょっと離れることにする。実はそうでもないのだが。
 いきさつがあって先日、ベルクソン『時間と自由』という本(中村文郎訳:岩波文庫)を買ってていたのだが、記憶よりページが多いし、開かないままだった。
 ところが、たまたま少し長く列車に乗ることになり、思いついて鞄に入れた。厚めの小説も用意したが、これはすぐに読み終わってしまうだろうし、他には持たないようにすれば、仕方なくベルクソンを開くだろうという魂胆である。ところが、鈍行のつもりで読み始めたのに、途中から加速度が増し、最後はリニアカーというか何というか、秒速10頁を越えて、あっけなく通り抜けてしまった。行った先で会った友人に中田整一『トレイシー、日本兵捕虜秘密尋問所』という本をもらい、これが面白かったからよかったものの、ベルクソンのおかげで「本切れ」になるとことだった。
 でも折角、久しぶりに堅い(=面白くない(^o^))本を読んだ、いや開いたのだから、最初に書いた「いきさつ」のためにも、どんな本だったのか、少し書いてみることにする。
 もちろん、和訳だから最適の訳語訳文であっても誤解する可能性があるし、研究書の類は一切知らないから修正できないし、まるきりの勝手読みである。むろん、勝手が過ぎて面白く曲解、誤読できれば、むしろその方がいいのだが、それは難しいから、ただの駄読に終わるだろう。と思いつつ、とにかく車中で読みはじめてみると、こんなことが書いてある・・・(もちろんこの文は、昨日帰ってきて、今日書いている)
 「序言」は後まわしにして、本文第一章「心理的状態の強さについて」の冒頭部分。
 「感覚、感情、情念、努力といった意識の諸状態は、増えたり減ったりできるものだと通常は認められている」。「精神物理学者」だけでなくその「反対者」も、「ある感覚が他の感覚より強いとか、ある努力が他の努力より大きいとかいう語り方をすることに何の痛痒も感じていないのであって、〜彼らは純粋に内的な状態相互のあいだに量的な差異を設けようとしていているのだ」。「常識」もまた同じで、「かなり暑いとかそれほどでもないとか、すごく悲しいとかそんなに悲しくなはないという言い方」をよくする。つまり、「こうした量的多寡の区別が、〜主観的事実や拡がりのないものの領域にまでもち込まれて」いるのである。「けれども、ここにはきわめてあいまいな点が、今、一般に思われているよりはるかに重大な問題が潜んでいるのだ」。
 以上で、ベルクソンの問題提起は、ほぼつくされている。
 取り上げられるのは、「感覚、感情、情念、努力といった意識の諸状態」である。具体例としてあげられている「暑い、悲しい」のような「感覚」「感情」に、「情念」が並んでいるのはいいとして、さらに日本語で「努力」とあるのにはまごつくが、訳者も苦労されたのだろう。後を読めば、力を入れて何かをしようとする意識らしく「筋肉努力」ともいっている。
 さて、その「感覚、感情、情念、努力」は、上記のように、「意識の諸状態」とまとめられ、それらは「純粋に内的な状態」とされ、さらに「主観的事実や拡がりのない領域」ともいわれる。
 例えば「暑さ」は、人それぞれに内に感じるものとはいえようが、やっぱり夏の浜辺では客観的に外気の暑さを皮膚に感じるのだから、「感覚」は「主観的」で「純粋に内的」とだけいわれても・・・、といった疑問が起こるかもしれないが、そういった疑問は、ただちに捨てなければならない。ベルクソンは、とにかくこの冒頭箇所で、「感覚、感情、情念、努力」といった「意識状態」を、客観的に拡がる外的世界から切断する。読者は、その切断宣言を受け入れて、ベルクソンと共に出発しなければならない。
 谷川の水に手を入れた時、「水が冷たい」とか「手が冷たい」とかいってはいけない。いやいってもいいが、それはただの素人会話である。「冷たいっ!」という意識を、外気や水や手や皮膚から切断し、ひたすら「主観的」で「純粋に内的な」「拡がりをもたないもの」として扱う、と、ベルクソンは最初に宣言してしまう。
 感覚だけではない。ただただ恋人のことだけを意識している時でも、「うれしい」「好き!」といった感情や情念を現実の恋人から切断し、ただただボールだけに意識を集中させているシュートの瞬間にも、「努力」意識をボールから切断しないといけない。
 難しいことではちっともない。どんなに恋人のことだけを思っていても、ボールに集中していても、愛を「感じたり」シュート「しようとしたり」というそのこと自体は、心の中のできごとであり、意識の内の動きである。
 ・・・以上のことを抑えることができれば、これで、この本の半分以上は読んだことになる。(続く)