ベルクソン メモ2

 くり返すが、ベルクソンは、冒頭で、「感覚、感情、情念、努力」といった「意識の諸状態」は、「純粋に内的な状態」であり、「主観的事実や拡がりのない領域」での事態であると宣言する。(注=この句の「や」は列記であるが、今は言い換えと読んでおき、後で修正する。)
 例えば、「水が冷たい」「手が冷たい」と私たちはいうが、その水が氷水なら、「冷たい」は「痛い」に変化し、さらに痺れた「むず痒さ」まで現れるかもしれない。それらの「感覚」の変化は、水の変化では全くなく、私たちの側、私の「意識」のできごとである。あるいは、「感情」や「情念」がいくら強くても、私の「意識」を、思う相手に宅急便で届けることはできない。いくら全意識をボールに集中させても、蹴ろうとする「意識」がゴールに転がり込むわけはない。「意識」は「意識」だ。この単純な、当たり前の事実を、はっきりと確認し同意することができれば、この本の半分以上は読んだことになる。
 だから、この後に書かれているのは、余計なことである。とはいえ、ベルクソンにとっては、もちろんそれは余計なことではない。そのことが、後半部分で分かるようになっている。ただしそのために、余計な部分には、かなり無理な負荷がかかっている。
 既に引用したように、この冒頭で、ベルクソンは不満に思っている。何をか。「感覚」をはじめとする「意識の諸状態」は「純粋に内的な状態」であり「主観的事実や拡がりのない領域」に属しているのに、それを、「増えたり減ったりできるものだ」と扱ったり、そこに「強い」とか「大きい」とかいった「量的な差異」「量的多寡」を表す表現を持ち込むことに対して、である。
 単純化してしまえば、「意識」の側は、「内的」で「主観的」で「拡がりのない領域」。一方、水や手や恋人やボールが属するのは、「外的」で「客観的」で「拡がりをもつ」世界。ひとことでいって「意識」と「外界」である。その峻別を宣言したベルクソンは、にもかかわらず、両者を曖昧にしてしまう学者や常識人に、我慢がならない。例えば人は、「箱が大きい」と同じ口調で「痛みが大きい」などといったりする。「ここにはきわめてあいまいな点が、今、一般に思われているよりはるかに重大な問題が潜んでいるのだ」。
 とはいえ、私たちが、「箱が大きい」と「痛みが大きい」を同じ口調でいうというのは、言いがかりではなかろうか。確かに私たちは「大きいな痛み」「大きな悲しみ」「大きな憎しみ」などという。しかし誰も、「大きなペットボトル」と同じように、「その悲しみの大きさは何リットルですか」などとは問わない。当たり前である。同様に、「その希望の明るさは何ルックスですか」「その責任の重さは何キログラムですか」などと問うわけはない。
 それでもベルクソンは、とりわけ「大きさ」にこだわる。「この銀メダルの喜びは、前回より2倍も3倍も大きいです」などという選手がいたとすれば、そのことばに我慢ができない。(続く)