ベルクソン メモ4

(予想通り、さっぱり面白くない話ですね。始めたばかりながら、そろそろやめますが)。
 (承前)けれども、感覚や感情などについて、ベルクソンは、「強さ」の「度合いの変化」といったいい方を連発し、「喜びとか悲しみとかの強さの増大」といったりもする。(ただし、「度合いの変化」というのは「大きさの増減」が混入した観念であり、本来の「強さ」は別だなどと後にいい逃れする余地がなくはない。しかし、ただ虹色のように変化するだけなら、あるいは変化もしないのなら、そもそも「強い/弱い」ということばは無用であろう。)それでもともかく、例えば痛みの「強さ」あるいは「度合い」が「増大」するとしても、そのことを、「痛みが大きくなった」などと医者にいってはいけない。
 くり返すが、ベルクソンが「大きい」と言ってよいと認めるのは(実際には、彼自ら「大きな魅惑」などと書いたりもしているのだが)、ひとつは物体の空間量、それもおそらく体積ないしは容量の「大きさ」と、そしてもうひとつが数、それもなぜか自然数の「大きさ」と、それだけである。そして、少なくともここでは何の根拠も示されぬまま、自然数の大きさも「空間の大きさ」だという宣託が下されるので、「大きさ」とは、「拡がりのある」「空間」の「量」である、ということになる。そう認めるように、読者は強要される、といって悪ければ、誘導される。
 二、では、「量」とは何か。ここでもまた、同様の限定選抜が、あいまいなまま行われる。ベルクソンが認めるのは「数量」と「容量」であったが、では、質量、熱量、仕事量、音量・・・その他無数にある「量」はどうなのか。
 そう問われることを避けるために、ベルクソンは、「外延量」と「内包量」の区別に便乗する。彼は「外延量」を、「測定可能な量」で「増減可能であり」、「含み/含まれる」関係が成り立つとした上で、 続ける。「だとすれば、量というものは 〜 まさに分割でき、またそのこと自体からしてまさに拡がっているものだということになる」。こうして、拡がりのあるものについては、「ある量を含む他の量をより大きい量だと正当に呼びうる」。
 一方、「拡がりがなく」、「延長的でなく」、「含む/含まれる」関係が成立しない、そんなものに、「どうして 〜 量だの大きさだのを云々できるのだろうか」。「非延長的な量というような言い方にはそもそも矛盾がある」。つまりは、内包量は「量」ではない。
 「内包量」は量ではない、というのは、これもまた宣託としよう。けれども、では「量」と認められた外延量のうち、例えば「質量」もまた、空間的に?「拡がっている」のだろうか。「拡がり」とは何か。
 それより何より、外延量に入れるのかどうかも含めて言及しない量がある。「時間」のことである。もちろんこれは後に、「外延量」として扱われるような「時間は、時間ではない」、とされるのだろうが、少なくとも、この段階では、量は空間量だといわれ、外延量が量だといわれると、では時間は? という疑問が起こることが予想されよう。しかし、「学者や常識」にとらわれずにむしろ彼らを誘導しようというベルクソンは、「数は空間?」「時間は空間?」といった当然の疑問を敢えて放置したままにすることで、読者をある方向へと誘導してゆく。「手品」といった所以である。(続く)