ベルクソン メモ6

 適当に書いている「メモ」なので、少し分かり難くなった。くどくなるが、整理して一区切りにしよう。
 最初にみたように、主題は、冒頭で全て示されている。「純粋に内的な状態相互のあいだに量的な差異を設けようと」することへの批判である。「内的な」意識に「量」を持ち込むな。「量的な差異」は、「外的な」世界の限定御用達である。
 ちなみに、「内/外」とは「空間」指標である。意識と外界を「内/外」に振り分け、意識を「内」に定位することは、より大きな「メタ空間」を暗黙の前提としているといえばいえる。ベルクソンが意識を「内的」といったとき、このことに自覚的だったかどうかは知らないが、このメタ空間に着目している哲学者が、どこか他にいるかもしれない。
 さて、「量的な差異」を表すのが「大きい/小さい」である。「体積」が大きい、「容積、容量」が大きい。いずれも、「空間」の「拡がり」の量である。この量は「量る」ことができ、数字で表せる。そして、例えば100ccの水と200ccの水を「合わせ」れば300ccになり、すなわち300ccの水は100ccの水を「含み」、また300ccを元のようにも「分け」られる。
 同様に、例えば6は4より「大きく」4と6を「合わせ」れば10となり、すなわち10は4を「含み」4と6に「分けられる」。このことから、「体積、容量」と「(自然)数」は、共に「空間的に」「大きい」といえる資格をベルクソンから認められる。「ある数が他の数より大きいとか、ある物体が他の物体より大きい」というのは問題ない。「なぜなら、この二つの場合には、〜問題になっているのは〜空間だからであ」る。「他の空間を含む空間は<より大きな空間>であるという言い方を私たちはするのである」。
 それに対して、内的な意識現象は、「空間」への「拡がり」がないのだから、「大きな痛み」「小さな悲しみ」などといってはいなけない。「量というものは 〜 まさに分割でき、またそのこと自体からしてまさに拡がっているものだ」。拡がりのあるものについてのみ、「ある量を含む他の量をより大きい量だと正当に呼びうる」のだ。
 ところで、50度のお湯50ccを2杯合わせると100ccになるが、50度はそのままである。前者を「外延量」、後者を「内包量」と呼ぶ時がある。べくルソンは、「感覚や感情」は確かに空間的な拡がりではないが、しかし「内包量」というものもあるではないか、といた反論をつぶす。「量」とは「まさに拡がっている」「延長している」空間についてだけいえるのであって、「非延長的な量という言い方にはそもそも矛盾がある」。「大きな痛み」「小さな悲しみ」などという表現は、「非延長的なものを延長的なものへ翻訳し」、「潜在的延長というイメージ」つまり「空間というイメージ」で捉えようという誤りに基づいているのだ。
 テーブルの右側に「外的世界」のカードが置かれ、そこには「外延−延長−拡がりがある−空間−量」という項目が読める。一方、左側に置かれた「内的意識」のカードでは、「内包−非延長−拡がりがない−非空間−非量」と、全項目が逆になっている。「なるほど〜、全く逆ですね〜」、と観客はうなずく。
 大哲学者を手品師になぞらえては失礼だといってはいけない。優れた手品師は観客を見事に愉しませる優れた技術者である。その技術は、見せるものを見せ隠すものを隠すことで、観客の注意を誘導することにある。意図的にかどうか、ここで「外延量、内包量」ということばを出しながら隠されているのは、例えば「内包的」ではあるが「内的」ではない温度や、あるいはまた、「外延量」であるが「延長的」ではない質量などである。
 私の方も怪しいが、ともかくこうして、観客の目は誘導されてゆく。外的世界が「量」と「空間」なら・・逆に内的意識世界は・・「量」の逆で「質」?「空間」の逆で「時間」?・・「質的時間」?・・・
 以上、まだ8頁しか読んでいないが、前半の残りの駅は通過してよいだろう。後半の成功は目に見えている。哲学者は喝采を浴びるに違いない。(続く)