ベルクソン メモ7

 最初に書いたように、「誤読を求めて正鵠を怖れず」というほど格好よくはなく、只の怠け者というだけが、文庫本一冊の部分読みだけで書いている。今の時代、例えば「純粋持続」で検索するだけでも、解説もあり論文類も山ほどあるだろうが、全く見ない。とはいえ、それで面白い誤読になればいいのだが、これまた最初に書いたように、そうはゆかずに平凡な誤読で終わるのがオチであろう。面白くない記事の上に、多分この先も面白くない。誠に申し訳けないことである。
 さて、そんな言い訳だけで、第一章のあとは通過して、次の章の冒頭に行ってみよう。いよいよ「時間」であるが、既にタネは仕込まれている。
 「数は単位の集合である。〜 それらの単位は同一であり、〜 あるいは同一と仮定されている」。しかし、数えられる以上は、それら単位は「どこかで区別されているのでなければならない」。では、どこで区別されるのか。「私が数え進めるに応じて数が増えていくためには」、 それらの単位を「一つ一つと並列しなければならない。ところが、そうした並列が行われるのは空間においてであって、純粋持続においてではないのである。」
 前章の冒頭部分で、「数」の大小が「空間的」拡がりとされていたことが、そのまま上の引用部分に続いている。本来、濃度的に空間に対応する実数ではなく自然数が「数」とされていたのも、「数える」ということをいいたいがためである。
 小さい子供が絵本を見ている。「あ、ネコがいる」。「そうだね。黒くて小さいネコがいるね〜」。「こっちは大きくて白いネコ」。「ここにもいるよ。黒くて耳の長いのが」。「違うよ、それはウサギだよ」。「よく分かったね〜。じゃ、ネコは何匹いる?」、「えっとね、ひとつ、ふたつ・・・
 子供は、ネコとウサギの「違い」に注目しつつ、ネコどうしについては、大きさや色の違いは無視し、ネコとして「同一」に扱う。ということで、次のページには、大きさも色も全く同じリンゴの絵。「おんなじリンゴだねえ。リンゴいくつある?」、「二つ」。「じゃ、この画用紙に、リンゴを二つ描いてみようか」。すると子供はクレヨンでぐるぐると○を描いて「ひとつ」といい、その○の上にさらにぐるぐると線を重ねて、「ふたつ描けた」・・・・というようなユニークな子供がいれば異才天才で(^o^)、普通は○を二つ、位置を変えて「並列」して描く。「五つ」といえば、○を5個「並列」。もちろん、子供の描いた○は、それぞれ大きさも形も違っているのだが。
 実際に○を描きながらとか、「正」の字を書きながらとかではなく、イメージの中だけで数える時でも同じである。私たちは何かを「数える」とき、「同一と仮定され」たものを「一つ一つと並列」してゆく。そして、「そうした並列が行われるのは空間において」である。
 さて、そう書いたベルクソンは、こう続ける。「そうした並列が行われるのは空間においてであって、純粋持続においてではないのである」。
 第一章は二駅目から急行通過したので分からないが、「純粋持続」という語は、ここが初出なのだろうか。ともかく、いよいよ問題の「純粋持続」である。(続く)