9 身をまかせながら没入していない

 ちょっと堅い話が長くなって退屈してきましたので、せめて口調だけでも変えましょう。もちろん、引用はそのままですが。 
 とにかくベルクソンは、「数える」というのは空間的操作だということを、実にしつこくくり返します。余程、これが重要な大発見だという自信があったのでしょう。「数える」とは単位を「並列」してゆくことだが、「こうした並列が行われるのは空間においてであって、純粋持続においてではない」。ジャ〜ン。ともかくここで、「純粋持続」が現れました。
 ところで、私は最初から、「むしろ面白い誤解を」と書いたのでしたが、前回の「出過ぎた誤解」は、結局物理的時間と心理的時間の別という陳腐な話に帰着するんじゃいかなどといわれそうです。ま、その話は後でまた蒸し返すつもりですが、しかし、「数える」のは「空間の観念の介入」だということは嫌というほど分かったとしても、時間をめぐる意識には実にいろんな相があって、そう簡単ではありません。
 のんびりしていたり逆に何かに熱中していたりのような殊更感じない「時」の意識、最近映画観ていないなあと思ったり落葉を見て天下や人生の秋に思いを馳せたりするような形なく感じる「時」の意識、そして時計を見ながら駅に急いだりカレンダーを見ながら納品までの日数を打ち合わたりするような数字で表せる「時」の意識、などなど。「数える」意識だけをくり返し説明すれば話が片付くというものでもないでしょう。「のんびり」と気分が延びるイメージ、栄枯盛衰する天下のイメージ、この前映画を観てからの時間幅イメージ・・・それらは空間的ということになるのでしょうか。それともならないのでしょうか。
 それは保留して、ともかく今日は、「純粋持続」についてのご当人の説明を聞きましょう。
 「持続には二つの考え方が可能なのだ。一つは、混合物のまったくない純粋なもの、もう一つは、空間の観念がひそかに介入しているものである」。 
 訳語だけで話をしているのですが、ともかくここでは、「純粋持続」は「持続」についての「考え方」のひとつとされています。空間の観念を介入していない「考え方」。ところが、上文に続く部分では、それは「意識状態の継起がとる形態」だとされます。
 「まったく純粋な持続とは、自我が生きることに身をまかせ、現在の状態と先行の状態とのあいだに分離を設けることを差し控えるとき、私たちの意識状態の継起がとる形態である。だからといって、過ぎていく感覚や観念にすっかり没入してしまう必要はない。というのは、そうすると、反対に、自我はおそらく持続することをやめてしまうからである。」
 う〜ん。前半では、「自我が生きることに身をまかせ、現在の状態と先行の状態とのあいだに分離を設けることを差し控えるとき、私たちの意識状態の継起がとる形態である」というのですから、例えば、のんびりぼんやりしていたり座禅をしていたり、あるいは逆にスポーツの応援に声をからしていたり一心に轆轤の粘土にヘラを当てていたり、といったケースが、まさにそれに当てはまりそうそうです。ところが、後半では、「だからといって、過ぎていく感覚や観念にすっかり没入してしまう〜と、反対に、自我はおそらく持続することをやめてしまうからである」と書かれています。「自我」が「持続することをやめる」というのは分かり難いですが、意識が何かに「没入してしま」って持続(時間)の意識がなくなる、いわば何かに「没入する」と「時」を忘れる、ということでしょうか。で、それは除外、するのでしょうね。
 ということで、「分離を設けず」「生きることに身をまかせ」ているが、しかし時を忘れて「没入せずに」、「時」は意識している、ということになりそうです。では、時を忘れるほど熱中せず分離もせずに、天下の「秋」や人生の残りの「時」に思いを巡らせている意識状態などはどうでしょうか。それとも、天下や人生のイメージには「空間」が介入しているからそれも除外、するのでしょうか。
 唯一公認のケースは、メロディーを思い出しているとき、のようです。(続く)