ベルクソン メモ8 

 細かい話は飛ばして先に進む。
 空間に「並存」している「もの」ではなく、「継起的」に消えてゆく「もの」を数える場合でも同じである。ドドドーン「あ、きれい! 花火が三つ」。ドーンドーンドーン「今度は三連発だ!」。暗闇で紙片に描いたりはしないが、イメージ空間に何かが三つ「並列される」。
 では、音だけを聞いている場合はどうだろうか。ドーンドーンドーン「三つ聞こえたね!」と、もちろん「見て数える」のも「聞いて数える」のも同じである。
 そして、このような「音を数える」というシーンの分析が、ある意味、この本のメインイベントであって、いよいよ真打ち「純粋持続」が登場する。
 ということなのだが、白状すると、私は出過ぎた誤解をしていたようで、この本のサワリには、次のようなことが書かれていると、すっかり思い込んでいた。
 のんびり悠然と過ごしているか、あるいは逆に、何かに夢中になっているか、いずれにしても、意識に直接与えられるものが流れ過ぎゆくまま、私は時の流れに身を任せている。その「時の流れ」は、私たちが「生きている」時間、「純粋に持続する」だけの時間といえる。けれども、フト私は、教会の鐘か柱時計かが鳴る音に気づき、意識を切り替える。「時計の音だな」と「判断」した私は、「何時かな?」と数字で表される時刻に関心をもち、音を「数え」る。そして、「もう5時か、4時間ほど経ったんだな」、と立ち上がる。
 ところで、音を「数える」という意識操作は、継起する何かをイメージ空間に「並列」してゆくことであり、いわば時間を空間的に捉えるということである。そのとき私たちは、純粋に持続する時の流れに身を任せることをやめ、空間化された時間に身を移し、「時刻」を「等質」な時間線上の点と捉え、また、空間的な「量」としての「時間」を計り、比べ、計算する。そして、そのような「量的な時間」、「空間化された時間」を共有することで、私たちは、時計に追われ予定に追われる日常的な社会生活を営んでいる。

 それなりに面白くできてはいるが(?)、思いこみに反して、上のようにはっきりと書かれてはいなかった(^o^)。
 では、「純粋持続」とはどういうことだろうか。そこで問題になるのが、例えば太宰治の「トカトントン」である(?)。(続く)