10 溶けかけのアメーバ

 前回とりあげた箇所の後、いよいよ「純粋持続」なるものの説明に入ります。
 「要するに、純粋持続とはまさに、互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の傾向もなく、数とは何の類縁性もないような質的諸変化の継起以外のものではありえないだろう。それはつまり、純粋な異質性であろう。」
 この肝心な場所で、「だろう」「あろう」と逃げているのはどうしてかは追求しませんが、以後、例によって、同じようなことを何度もくり返し説明します。煩瑣になるので、骨格だけをつなげて一つの文にしますが、
 「ある点を別の点と並べるように並べるのではなく」、「相互に外在化していく何の傾向もなく、数とは何の類縁性もないような」、「数とは何らの類似性ももたずに」、「測定可能な量という観念から完全に解放される」ような、
 そのような 有機的一体化」、「区別のない継起」、「諸要素の相互浸透、緊密な結合、内的組織化」」・・・
 しかし、それだけでは余りにも抽象的過ぎると思ったのか、ベルクソンは、これまた何度も、「メロディーの想起」のようなものだ、という説明をくり返します。これも骨格だけをつないで紹介しますが、
 「あたかも一つのメロディのさまざまな楽音のように」、
 「あたかも或るメロディの楽音を言わば全部が溶け合ったような状態で想起するような」、
 「あたかも私たちをうっとりさせるようなもメロディーの継起的な楽音がそうするように」。
 「それらの楽音の全体は」、「その諸部分が、たとえ区別されはしても、それらの緊密な結びつきそのものによって相互に浸透し合う」、「区別のない多様性あるいは質的多様性とでもよぶべきもの」で、「相互に浸透し合い、有機的に一体化する」。
 「私はこうして純粋持続のイメージを獲得するとともに、等質的な環境ないし測定可能な量という観念から完全に解放されることになろう」。

 ・・・なるほど、メロディーの想起ですか。けれども「外在化していく何の傾向もなく」というのですから、つまり、外界空間的なイメージに傾くことが全くないということでしょう。だとすると、素人にとっては、そのような「純粋」メロディに出会うのは、簡単ではありません。映像をイメージせずにメロディーを想起できないアナ雪の類の曲はダメ。レディーガガやももクロを想起してしまうようなメロディーもダメ。クラシックでも、歌曲はもちろん、月光の戸を叩いたりするのはダメ。ベルクソンとほぼ同時代のフランス印象派などは音のもつ情景喚起力を重視したからダメ。他の情景を連想や喚起しなくても、ピアノ曲でピアノをイメージしたり、チェロを右奥になど「拡がりのある」臨場感つまり「場」を感じてしまうとダメ。以上のようなことが一切なくても、ドレミの部分で「上がる、高くなる」などとイメージしてはダメ。
 それ以前に、「数とは何の類縁性もない」というのですから、音階と等拍の小節を基本とする西洋近代音楽のメロディーは全てダメでしょう。少なくとも東洋の馬子歌や胡弓などには負けます。 
 大体、「各部分が緊密な結びつきそのものによって相互に浸透し合う」というのですが、「区別のない」といいながら「区別されはしても」といったりする程度のことで揚げ足は取りませんが、「持続」が「拡がり」と無縁だとすれば、どうしてそれが「部分」をもち、それらが互いに結びついたり浸透し合ったりできるのでしょうか。あるいはまた、「純粋持続」は「互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく」というのですから、「明確ではない」ぼんやりした「輪郭」をもっているようです。
 各部分を区別できるが明確には区別できず、全体としても輪郭はあるが明確な輪郭ではない・・・つまり溶けかけたアメーバのようなものですね。ベルクソン自身がいっています。そういった「生き物になぞらえうるとは言えまいか」。
 もちろん、純粋持続が「想起されるメロディ」だとか溶けかけたアメーバのような「生き物」だといっているわけではありません。それらは「あたかも」であり「なぞらえうる」イメージです。それにしても、大変説明に苦労しているのは、「純粋持続」というものが、ほとんど素人には、いや人間には誰にも無縁なほど、難しいものだからでしょう。
 純粋持続とは、「おそらく、〜何ら空間の観念をもたないような存在者が持続について形成するであろう表象である。しかし、私たちは空間の観念に慣れ親しみ、つきまとわれてさえいるので、それを継起の表象のなかへ知らぬ間にもちこんでしまう」。
 メロディを想起しようとすると、どうしても歌手や情景や演奏などなど「空間」的なイメージが付いてきてしまうような素人は、もともと全くダメだったようです。いや素人だけではありません。「何ら空間の観念をもたないような存在者」なんていないでしょう。「私たち」人間はみな空間の観念をもっています。だから「私たちは〜それを継起の表象のなかへ〜もちこんでしまう」。つまり、「私たち」はみんなダメ。誰もが「時間的−空間的」な表象しかもてないことになります。
 しかし、心配することはありません。別の箇所では、不思議なことに、たやすく誰もが「純粋持続のイメージを獲得する」方法が述べられています。それはまた後で。(続く)