11 時の流れに身をまかせ

 災害、戦争。国内でも国外でも、大勢の人が命を落とす、大きなニュースが続いています。こんなものを書いている場合か、とお叱りの声もあるでしょう。それでなくても、大体面白くないことを書き始めてしまいました。ごく少数ながら当ブログをお読み頂いている方々には、飽き飽きされていることでしょう。話を端折って、あと少しで終わらせますので、せめてテレサ・テン「時の流れに身をまかせ」でも聴きながらお読み下さい。m(_ _)m
 ベルクソンという人が19世紀末に書いた本の話でした。
 「何ら空間の観念をもたないような存在者」ではありえず、煩悩具足の我ら衆生は、「空間の観念に慣れ親しみ、つきまとわれて」、「それを継起の表象のなかへ知らぬ間にもちこんでしまう」がゆえに、「純粋持続」なるものをイメージすることは大変難しいように見えました。でも、難行あれば易行あり、です。
 ベルクソンはいいます。称名は六字、除夜の鐘は百八つなどと「数える」ことなく、前後の音の「一方を他方のうちで統覚する」と、「それらのイメージは、あたかも一つのメロディのさまざまな楽音のように」聞こえる筈であり、「私はこうして純粋持続のイメージを獲得するとともに、等質的な環境ないし測定可能な量という観念から完全に解放されることになろう」と。「数える」ことをやめてひたすら念仏を称えるだけでよいのです。「意識は、持続を記号的に表象するのを差し控えるときはいつでも」、「純粋持続のイメージを獲得」できるというのですから、これほどの易行はありません。例えば、「振り子の規則正しい振動が私たちを眠りに誘うとき」でも、とベルクソンはいいます。羊の数を「数え」たりすることを「差し控える」だけでよいのです。問題は、数えるか、数えないか、のようです。
 「青春デケデンデケデン」ではなく「デンデケデケケデ」であり、太宰の短編は「トントカトン」ではなく「トカトントン」だということを、私たちは知っています。「トカトントン」をひとつのリズムとして聞き、そして覚えているからです。一方、「ト・カ・トン・トン」と4つの音を「数える」とき、リズムは消えて、「分離され、並列され」た音だけが残ります。それはダメ。
 屋根の上で「トカトントントカトントン」と、リズムをとりながら一心に釘を打っているとき、遠くから聞こえる「トカトントントカトントン」のリズムに身をまかせているうち眠りに誘われているとき、私たちは音を「数え」たりはしていません。 
 「まったく純粋な持続とは、自我が生きることに身をまかせ、現在の状態と先行の状態とのあいだに分離を設けることを差し控えるとき、私たちの意識状態の継起がとる形態である。」
 「分離」して数えたりすることを「差し控え」、「生きることに身をまかせ」るだけ、「時の流れに身をまかせ」るだけでよい。
 しかし・・・・・、それでは、私が長年抱いていた「誤解」に戻ってしまっているではありませんか。再録してみましょう。
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 白状すると、私は出過ぎた誤解をしていたようで、この本のサワリには、次のようなことが書かれていると、すっかり思い込んでいたのである。
 のんびり悠然と過ごしているか、あるいは逆に、何かに夢中になっているか、いずれにしても、意識に直接与えられるものが流れ過ぎてゆく。私が身を任せる「時の流れ」は、私たちが「生きている」時間、「純粋に持続する」だけの時間である。けれども、フト私は、教会の鐘か柱時計かが鳴る音に気づき、意識を切り替える。「時計の音だな」と「判断」した私は、「何時かな?」と数字で表される時刻に関心をもち、音を「数え」る。そして、「もう5時か、4時間ほど経ったんだな」、と立ち上がる。
 ところで、音を「数える」という意識操作は、継起する何かをイメージ空間に「並列」してゆくということであり、いわば時間を空間的に捉えるということである。そのとき私たちは、純粋に持続する時の流れに身を任せることをやめ、空間化された時間に身を移し、「時刻」を「等質」な時間線上の点と捉え、また、空間的な「量」としての「時間」を計り、比べ、計算する。そして、そのような「量的な時間」、「空間化された時間」を共有することで、私たちは、時計に追われ予定に追われる日常的な社会生活を営んでいる。

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 私は、誤解していなかったのでしょうか。(続く)