ベルクソン14終 ネコ

 ○ 「日頃から人間というのはバカじゃないかと思っているんだが、例えば有名なアキレスという男。あのトロい亀に勝てないというんだから、バカとしかいいようがない。今の瞬間、今の瞬間に、亀のいる所に行こうとするから、着いたときには亀は先に行ってるという寸法だ。バカだね全く。そこへゆくとオレたちネコは「今の瞬間」なんて相手にしない。走っているネズミの速度と方向を見て、ジャンプする。もちろん、今の瞬間のネズミに向かってではなく、ネズミが走り寄ってくる地点に向かってだ。行動世界というのは、そんなもんだろ。現在は瞬間ではなく時間には幅があるとかなんとか、いまさら何いってんだか。
 行動だけじゃない。大体、人間は、過去の記憶、現在の知覚などと仕分けておいてから、いや、溶けかけたアメーバみたいに融合しているとかいうのがエラい哲学だというのだから呆れるね。「今」あの塀の上に見えるのは、「以前」車屋で餌食ってた「車屋の黒」だ。憚りながら町内でオレが見るものはほとんど、以前から見慣れた奴、見知りの物だけだ。そんだけのことじゃないか。
 ○ そうはいうものの、オレは別に、哲学者の尻馬に乗って、瞬間なんてものを考えたり時間を量として捉えたりすることにイチャモンをつけようなんていってるんじゃない。オレたちネコの手は指折り数えられるようにはできていないから計算できず数学ができない。ネズミを捕まえようとジャンプするのも、微分とか積分とか訳の分からん計算をして着地点を決めるのじゃない。そこへゆくと人間は、自分ではネズミ一匹獲れないくせに、飛んでいる飛行機をミサイルで撃ち落としたりする。そんな使い方をするところが真性のバカということなんだが、とにかくオレたちネコに真似できないのは、時間をきっちり「量として扱う」ということだ。
 ○ 「資本主義社会では全ての財は商品として現れる」といったマルクスに対して、「母の形見の指輪の価値は労働時間で量れない。価値は質だ」という反論があったそうだから、「経験世界では全ての物は質量と速度を持った物体として等質の時空に現れる」といったニュートンやカントに、「プロポーズの指輪をもらった時に感じた時間は時計では量れない。時間は質だ」というようなイチャモンも当然予想できる。「現れる」は「扱える」という意味だということが分かってないのだ。
 ○ 「何もない空間が重い」というのは全くバカな話だが、「ドーナツの全重量は、穴の真ん中の、何もない所に集まっている」ものとして「扱う」ことを、中学生でも理解している。「距離も時間もゼロなのに速度がある」というのはバカな話だが、そんな瞬間速度を計算できる数学を、高校生でも理解している。そうやってドーナツの運動が「記述できる」ことを学んだ彼らは、やがてドーナツ型静止衛星の軌道の計算をする仕事にも就くだろう。もちろん時空を「量的に扱う」連中が特別賢明でも偉いわけでも決してないが、しかし特別バカで頑固だといういうわけではない。非ユークリッド空間でも宇宙時空の有限性でも時空の相対論的歪みでも、そんな非等質性を理解し受け入れるのも、連中の方が先だろう。
 もちろん一方、人間は、永遠の今とか死への時間とかその他いろいろ、時間を「質」的に考えることで、何か貴重なことに気付いたり納得したりしてきたのであって、それはそれで大いに結構なことである。ミサイルや衛星を飛ばすことが何だというのだ、というのは格好いい話ではないか。
 ○ 「意識にとって」という所から出発すれば、時間は緩急一様でなく過去も未来も融合しており、それを「質」というならいってよい。けれども、「内的」意識つまり個的意識から、「外に」つまり「共同」意識の場に出て、例えば誰かと話すだけで、時間の「質」は平準化されはじめ、次第に「量」として「扱われる」ようになる。
 結局、時間などというものは、「質的に意識される」が「量として扱える」という、ただそれだけのことだろう。ニュートンにしてもカントにしても、実験や思考に熱中して時の経つのを忘れたりもするし、ベルクソンの書斎にも時計があったろう。ところが、そのあたりで適当に納めておけばいいものを、人間はバカだから、「本来」の時間は、などといい出したりする。そうやって、どちらの側からも傲慢が始まる。
 ○ オッと、たかがネコの分際で、エラそうなことをいってしまった。オレたちネコは数えられず、つまりは世界を量としては捉えられないのだった。取り消し、取り消し。ベルクソン先生は正しい。時間は質的だ。量として扱うのは空間として扱うことであり、時間の本質を離れることだ。量的空間の拡がりから全く無縁な、内的意識に現れる純粋持続こそが、時間の神髄だ。量的拡がりとしての時間という時間の物化、意識の堕落は、時間を「数える」ことから始まる。その点、オレたちの手足は指折り数えられるようにはできていない。持続としての時間を数えたり量ったり計算したりはできず、物化にも堕落にも縁がなく、ただ昼夜日月、その時々の風のそよぎを感じて暮らすだけである。
 「日常の経験から、私たちは質としての持続と言わば物化された時間との間に違いがあることを知っているはずだ。前者は意識が直接に達するような持続、動物もたぶん知覚している持続である。後者は空間の中での展開によって量となった時間である。」
 「たぶん」付きながらベルクソン先生も認めている。オレたちネコは「物化された時間」、「量」としての時間には無縁であって、ただ「意識が直接に達するような持続」の中で暮らしているのだ。
 ○ そしてここでも、続く部分で、これまでさんざんくり返されてきた場面が、またもしつこくくり返される。
 「隣の大時計が時刻を告げている。だが、私の耳は他に気をとられていて、すでにいくつか時を打つ音を聞いた後でしか、それに気づかない。だから、私はそれを数えていたわけではない」が、それでもやがて音に気づいた私は、それまでの「音を総計し、それらを現に聞いている音に付け加えることができる」。
 しかし、それは「加算とは全く別のやり方で」あって、それらの音は「互いのうちに溶け合っていたのだ」。「要するに、打たれた音の数は、質として知覚されるのであって、量としてではない」。
 細かくいえば、「音の数は、質として知覚される」(数が質として知覚される)というのは、ペンが滑ったのだろう。「質」として覚えているのは「トカトントン」であって、4という「数」ではない。それはともかく、「持続はこのように」「直接的意識に現れる」。
 ○ さて、そうだとすると、どうなるか。
 「出過ぎた誤解」だと書かれていたが、実は正解だった、などといいたいのではない。ただ、「動物もたぶん」である。それでよいのか。
 面倒だから、とにかく終わるが、書名から分かるように、「時間」は前置きで、目的地は「自由」だ。例えば、カントにしても、時間を等質と扱った「誤り」は通過点であって、そこで因果律に囚われ、自由を超難しくも乏しい地点に祭り上げてしまったと、イチャモンをつけたいのは納得できる。自由などというものは刑期を終えたヤクザもまた「感じる」ものだということを認めなければ、自由論など意味がなかろう。のだがしかし、ではオレたちネコはどうなのか。
 持続や時間を生きることと持続や時間を観念すること、自由に生きることとオレは自由だと言うこととはもとより異なるだろう。けれども、専ら量化された時間と質としての持続の区別に終始し、くりかえし境目に「数える」ことの空間性を置くのなら、数える能のないオレたちネコこそ、いや全ての「動物もたぶん」持続を生きることになる。
 「自由行為」は 「流れる時間の中で行われる」。「自由とは一つの事実であ」る。なるほど。要するに、それぞれ自由にやっているというだけのことらしい。ネコのための本である。
 ということで、ともかく強引に終わるとしよう。大いなる誤解であってくれればいいのだが、多分平凡な誤解であろう。