狂言と木梨某

 夏前に大阪で狂言を観ました。こちらは能楽堂で演じられたプロの狂言。で、つい先日の土曜日に横浜で「ヨコハマ・トリエンナーレ2014」に組み込まれた狂言を観たのですが、こちらは釜ヶ崎の住人による狂言
 ヨコハマ・トリエンナーレ(ヨコトリ)は、森村泰昌氏がアートディレクターをつとめるイベントで、釜ヶ崎の人々を招いたのも森村氏です。当日も、すぐ横で観ていました。
 狂言師の所作はおそらく、一秒一寸もゆるがせにしない「形」を通ることによって、究極的にはそのような計らいを捨てた純粋持続へと突き抜けることを目指すものでしょう。一方、釜ヶ崎大学の参加者が演じた狂言は、芸を見せるというよりは生活を見せる、いわば正反対のものであるようにみえますが、しかし、生活の中にあえて「形」を持ち込むことで、生活の「形」からの更なる解放を目指すものなのでしょう。などといい加減なことをいってはいけません。とにかく面白く見せてもらいました。
 ただ、集められた「アート」展示の方は、森村氏には恐縮なのですが、いまひとつという個人的感想で、ジョン・ケージの手書き楽譜は初めて見ましたが、あとは作家毎の細かい字の説明も読まずに、散歩通過させて頂きました。
 昨今は昔の「美術」といった枠はとっくに壊れ、一定のスペース(区切られた時空)を訪れる人(観客)を、面白がらせる(異化体験)ためのアート(ワザ)なのだと、私は勝手に思っていますが、それだけに、作家の方々も大変でしょうね。例えば、地下3階の「みなとみらい」の駅を降りて、巨大な壁に詩のようなものが彫り込まれているのを眺めながら、広々とした空間を貫く長いエスカレーターを昇って、美術館に入ってみると、スケールでは問題にならない小さい階段が作られていたり小さなパネルに文字が書いてあったりするわけですから。
 もっとも、通行人はただの通行人ですが、美術館の観客は、払った入場料分は「面白がって」元を取ろうと構えて訪れるわけですので、数段の階段とパネルの詩にも、結構面白がってくれるのかもしれません。
 ところで、たまたま今日、とんねるずの木梨某が、人形を背負った「変な格好」をして、ニヤニヤしながら彩色された自転車を投げ落とす場面がTVに映りました。それが実はヨコトリの会場風景で、森村氏は、会場の中央に巨大なゴミ捨て場を設置し、各作家が投げ込む失敗作が溜ってゆくようにしているのですが、木梨氏がそこに「作品」を投げ込んだのでした。不明にもそれで初めて知ったのですが、木梨ノリ氏は美術作家だったのですね。もっともTVでは、彼の「変な格好」は彼の美術「表現」ではなくタレントである妻のアイデアだったという、芸能ニュース扱いでしたが。
 そういえば「画伯」を自認するお笑いタレントもいますし、「世界的」映画監督だっています。もちろんタレントであろうと誰であろうと、何かを表現しようと「作品」を発表するのは全く自由ですし、評価されたりもします。ただその場合、観客の方では、これが「あのタレント」の作品か、と「面白がる」ことがありえ、それも含めて、ひとつの、いわばアートパフォーマンスが成立する、ということもあるでしょう。で、観客が払う金が動きます。
 しかし思えば、「あのタレントの」と「あのピカソの」の間に、どんな垣根があるのでしょうか。
 そしてまた、さらに思えば、翻って「あの釜ヶ崎の」はどうなのでしょうか。