ゲームの時代

 「人斬り以蔵」といわれた土佐勤王党岡田以蔵だったか、あるいは逆に新撰組の「人斬り鍬次郎」こと大石鍬次郎だったか、どちらかの話である。この際それはどちらでもよい。
 暗い座敷に集まった同志たちが酒を酌み交わしつつ政局を論じる間も、彼は部屋の隅で大刀を抱いて柱にもたれ、政論には加わらずに黙したまま杯を口に運んでいた。やがて同志たちの議論は、「この際断固、誰それを誅すべし」「そうだ」「その通り」と激してゆき、話は暗殺計画やその後の状勢判断に及んでいった。その時ふと誰かが、彼のことを思い出した。「そういえば彼は?」「今までそこにいたが、さっきフラリと出ていった」「厠にでも立ったのだろう」「それにしては長いな」などと話していると、彼が大刀を手に戻ってきた。「貴公どこへ行っていた?」「斬ってきた」。
 まあ作り話だろうが、古今東西この手の話がよくあるのは、沈黙の暗殺者あるいは沈黙の剣士のカッコよさとでもいったものに惹かれる向きが少なくないからだろう。
 ところで、この話は、以蔵でも鍬次郎でも、勤王でも佐幕でも、どちらでもよいところがミソである。実際の二人も、共に格別の政治思想や信念をもっていたわけではなかったらしく、議論せず、ただ暗殺という仕事だけをした。
 彼らの最後は、共に悲惨である。人殺しの道具と扱われた故に、道具が邪魔になると捨てられ、売られ、殺された。殺されたことが悲惨なのではない。英雄的に殺されるために不可欠な何かを、彼らが持ち合わせていなかったことが悲惨なのである。「灰とダイヤモンド」のマチェックをはじめとして、映画の中にも何人ものカッコいいアサシンが登場し、大抵悲惨な最期を遂げる。けれども、そのことをも含めて、悲哀を含んだ沈黙の暗殺者はカッコいい。
 沈黙の暗殺者は考えない。考えることを許されないか、自らに禁じる。もちろんそれは、彼らがバカだという意味ではない。彼らはむしろ抜きんでた知力で、ターゲットを殺す計画を練りあげる。彼らが考えないのは、あるいはほとんど考えないのは、ターゲットを殺す理由についてである。彼らは、何故この人間を殺すのかは考えない。だから決して逡巡せず躊躇もせずに、ただ撃つ。それが、カッコよく見えたりする。
 スポーツやゲームでのシュート(撃つこと)がカッコいいのも、敵が明確で揺らぎがないからである。敵といっても「憎しみ」などは不要である。サバイバルゲームという戦争ごっこでは、敵は遊び仲間だが、じゃんけんでも何でも敵味方に分かれた以上は敵は明確で揺らぎがないから、逡巡も躊躇もなく引き金が引ける。日本の自衛隊は知らないが、アメリカ軍の新兵に課せられるのは、いわゆる軍事技術の訓練だけでなく、逡巡も躊躇もなく反射的に引き金を引けるような心理訓練だそうである。兵士の殺戮ロボット化、戦争のゲーム化。
 そういえば、例のエヴァンゲリオンというのは、話が多岐複雑で私などには分からないが、トータルな敵の意図はともかく、襲ってくる当面の時点では、敵が敵であることに揺るぎはない。一方、立ち向かう巨大な戦闘ロボットエヴァには考える「頭」ははじめからないが、乗り込む人間は、14才の新兵でもそれなりに余計なことを考えてしまう。そこで、(ファンの方々には叱られるに違いないが)「エヴァ」というのをひとことでいえば、鬼軍曹式ではなくやわらかいカウンセリング方式ではあるが、とにかく新兵を戦闘機械に乗り込ませ、「今は余計なことは考えないで!」とだましだまし進んでゆく軍団のお話だと見ることもできよう。
 脱線してしまったが、ともかく、反射的なシューター、ストライカーはカッコいい。逡巡も躊躇もなく明確な敵を撃つ暗殺者や戦闘員がカッコよく見えてしまうことがある。
 「イスラム国」のニュースが伝わった最初の頃から、イヤな予感があった。「殺人ゲームに「聖戦士」として参加できる全額無料スリル満点の旅行プラン」の勧誘と捉えて、参加してみようとする若者が現れるのではないかという予感である。
 私には、中東の情勢について軽々しくいえるほどの知識はないし、現代青年を取り巻く社会状況や彼らの社会心理についても同様である。ただ、何かが余りにも重苦しく、しかしその原因も敵も分からず、何に対してどうもがいてよいのかも全く見えない日々の中から、ゲームのように単純に見える世界への、憧れとまではいわないにしても、興味が生じることはあるだろう。
 同行する予定だったジャーナリストによれば、今回逮捕された北大生は、こう話したという。「シリアに特に関心はない」、「イスラムに興味はない」。ただ「シリア行きの求人を知り、「何これ、面白そう」と思った」、と。「別のフィクションに身を置いてみたい」とか何とかともいったらしいが、そんな言い方は、北大生の頭が考えた余計な表現だろう。
 「シリアに特に関心はない」「イスラムに興味はない」のに何故?、と人は思うかもしれないが、そうではない。撃つ理由に「関心」も「興味」もなくややこしい「憎しみ」感情などもない新兵は、むしろ道具として使いやすい、使われやすい。「お前は聖戦士だ。奴等が敵だ」という単純明確な世界に身を置き逡巡も躊躇もなく殺し殺されるという自分の姿が、カッコよく思えるのだろう。