どちらが多く殺したか

 ところで、ノモンハン戦争(ノモンハン事件)というのは、前回触れたように、1939年の夏に、「満州」国とモンゴル人民共和国の国境線紛争として始まり、たちまち日ソ両国の大規模な軍事衝突となった戦争です。最初は小規模な衝突で、現地で収まりかけたにもかかわらず、辻参謀が書いた「国境紛争処理要綱」では、「専守防衛」といいながら、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」としていたものですからたまりません。「戦争を望むものではないが、国境維持には断固とした態度を示す」というのは、まさに今のアベ政府与党の態度ですが、「戦争を望まぬが国境は断固防衛」というのはつまり「国境防衛のためには断固戦争を望む」ということであって、ともかくその方針に基づいて関東軍は強硬に突き進み、遂に(望み通り)ソ連軍との正面きっての軍事衝突が引き起こされたのでした。
 その後の戦闘については、伊藤桂一をはじめとして、生き残った兵士らからの聞き書きなどをもとにした小説やノンフィクション書などがかなり出されてきました。関東軍は飛行機や戦車、大砲をつぎ込み、全力を挙げて何度も激突死闘を繰り返しますが、強力なソ連機甲部隊の前に苦戦を強いられ、遂には対抗できる火力なく、穴に隠れて戦車の腹で火炎瓶を炎上させるという「自爆」攻撃にまでするのですが、結局、いかに辻参謀らが叱咤しても、退く他なくなります。
 ところで、ご承知のように、というか昨今目立つように、「侵略」とか「反省」とか「敗戦」とかいった言葉がとにかく大嫌いで、だからそんな「嫌なことは認めない」という連中がいます。もちろん「ノモンハンの大敗」についても「嫌なことは認めない」、といいたいのですが、肝心の当時の軍自身が惨敗だと認め、だからこそ辻らは前線で多くの部下を失って退いた部隊長らに敗戦の責任を負わせ、ピストル自殺を強要したり左遷したりし、そして陸軍は、組織ぐるみでこの敗戦自体を、帝国陸軍の汚点として隠し続けたのでした。
 ところが、ソ連崩壊後、旧軍事資料が少しづつ明らかになり、ソ連軍の戦死者や損害が、関東軍同様に大きいものであったことが明らかになってくると、「敗戦は嫌だ、嫌なことはなかった」という、子供のような連中の目が輝きだし、こう言い始めるのです。「ノモンハンで、大敗なんてしていないじゃないか。負けていない。もう少しで勝つところだった。むしろ実は勝っていた。それにソ連軍の方が焦っていた。もうひと押しすれば、大勝だった。」・・・。
 日露戦争で「勝った」日本に実は事情があったように、ノモンハンで「勝った」ソ連にも実は事情があったことは事実です。また日本軍が驚くほど果敢に闘ったことも事実のようです。「兵力の多寡にかかわらず」最後まで戦えといわれ、退くと自死させられるとあれば、死闘を繰り返す他なかったでしょう。
 けれども、そもそも「勝った」「負けた」とはどういうことでしょうか。どんな戦闘についても、戦場に遠い政治家や軍本部やそして国民は「勝った、勝った」と熱狂したりもします。けれども、政治家や将軍が互いに引いた「線」のために、故郷を遠く離れた荒地で、なぜ兵士たちは殺しあい、そして死なねばならなかったのでしょうか。双方兵士の屍が累々と広がる戦場に立てば、「戦場には勝者はいない」ということばが実感されることでしょう。
 しかし、「ソ連の戦死者の方が多いじゃないか。負けてはいなかった。むしろ勝っていた!、などという連中にとっては、戦争の「勝ち」「負け」だけが問題であり、しかもその「勝ち負け」判断の根拠となるのは、もはやそれを目的に戦争をはじめた肝心の国境の帰趨などですらなくて、ひたすら「どちらが、より多く殺したか」、ということだけのようです。
 話が変わります。
 いきさつは省きますが、少し前、ある外国人に、本棚にあった、田中克彦岩波新書『ノモンハン戦争―モンゴルと満洲国−』を進呈しました。その人と話して、関心があると思ったからこそ進呈したのですが、少し難しいかもしれない本を勝手に押し付けるのもどうかと思い、「こんなことが書いてある本なので、もしよかったら読んでみてください」と、以下のような紹介の手紙をつけました。勝手な紹介ながら、ここに載せておきます。
 田中克彦(1934年- )は、著名な言語学者で、『ことばと国家』などで言語と国家の関係を批判的に追及する他、チョムスキー批判や漢字全廃論なども含め、様々な研究や発言をしています。モンゴルに関する研究や発言も、その一つです。
 この本では、1939年の「ノモンハン戦争」(ノモンハン事件、ハルハ戦争)が取り上げられています。当時、日本軍(関東軍)は大陸で軍事侵略の手をひろげ、32年に傀儡国家「満州国」を作っていました。1939年の夏、ハルハ河付近で満州国モンゴル人民共和国の国境をめぐって戦闘が起こると、両国を背後で支え、また支配していた、ソ連と日本の強力な軍隊がぶつかり合って、双方で数万人の犠牲者を出す激しい戦争となります。
 ノモンハン戦争(日本では普通、「ノモンハン事件」といわれる)については、戦史として取り上げた本が多く出版されています。しかし田中は、戦闘については僅かしかページを割かず、「どうすればあんな戦争にならずにすんだか」という基本姿勢に立って、戦争の背後にあるものに目を向けます。浮かび上がるのは、モンゴル諸部族と国家の関係です。
 ノモンハンで争われた境界線は、もとは、同じモンゴルのハルハ族とバルガ族の、生活上の「部族境界」でした。それが、歴史の中で、ソ連を強力な後ろ盾とするモンゴル人民共和国と、日本軍が作り上げた満州国の「国境」となったのでした。対立する日ソ両強大国は、モンゴル諸族の融和や共生、さらには汎モンゴル主義による統一を目指すような自主的な動きを断じて許さず、それらの動きは、戦争以前にも戦争以後も、ことごとくつぶされてゆきます。もちろん、ハルハ、バルガだけではありません。より広く目を向ければ、17世紀以降のロシアには、バルガ族の起源であるプリヤートの国があり、さらにまた、中国領内にはいわゆる内モンゴルがあります。(もちろん他にも、多くの少数民族が混じり合って暮していました)。田中は、最新のモンゴル史研究を踏まえ、言語と文化を共有しつつ、強大国の国家意思によって分断され、翻弄されてきたモンゴルの人々の苦闘の歴史として、戦争の背後の世界を描いています。もちろん、モンゴル諸族の歴史に関わりをもつのは、日本とロシアだけではありません。辛亥革命前後で大きく変動する満州族(清)があり、そして何より長年にわたって農耕文化で北に迫る漢民族があります。田中の視点は、遊牧文化を世界史的にどうとらえるかという、文明論的な問題にまで広がっています。
 この本は、モンゴルの人々への共感の深い著者が、ノモンハン戦争を手掛かりにして、現代に至るアジア大陸の歴史を描いた、他に類を見ない、大変示唆に富んだ本であると思います。