今後はやれます。やります。

 安保関連法案に対する反対運動が広がりを見せています。ただアベは、反対されればされるほど自分をヒーロー化してゆくという、政治家にはよくある厄介なタイプに見えます。「現時点で反対の声があることは承知しております。なお国民に理解していただく努力はします。しかし完全な理解がえられなくても、ある時点で私が決めます。というか、公明党様のおかげで、もう決まりました。だから法案は、予定通り成立します。かつて、祖父の時代にも、日米安保体制の必要性について国民の理解が足りず、何万という反対デモが国会を取り巻き、マスコミもそろって反対の論陣を張りました。しかし、祖父が職を賭して断固決断すると、その後次第に国民の理解が進み、現在では日米安保体制に反対する国民はおりません。あるいはまた、かつては自衛隊について国民が無理解で、自衛隊違憲だなどという声が強くありましたが、しかしその後国民の理解が進み、そんな声は、もはやどこにもありません。今回の法案についても、憲法学者まで何かいっているようですが、そんなことだから人文系学部は不要だというのです。違憲というなら、だから憲法をこう改正すればよい、という研究に進んでもらいたい。学者の仕事は法律の研究であって、法律の運用は、政府が責任をもって担当する専決事項です。学者や内閣法制局ではなく、国民の支持のもとに政府を率いる私の解釈が、日本政府の、ひいては日本国の正当な見解です。まだ理解していない諸君は、いくらでも反対しなさい。反対することは自由です。しかし、決めるのは、みなさんではなく、この私です。私は、無理解な人々の反対の声や、見解を異にする人々の違憲の声などには惑わされません。「国を守る」ために必要な法律を、断固決断して成立させた首相として、歴史に名を残します。参議院の議論がどうなっても、もう既成事実です。もうどうでもよろしい。いくらでも反対すればよい。そして大いに落胆すればよい。ザマアミロ。」
 いやいや、あくまで不埒な想像にすぎませんが。
 それにしても、「強引」だとか「違憲」ではとかいうことで支持率が多少落ちているとしても、「国を守れ!」という点についてはどうなのでしょうか。政治的にも経済的にも、「アジアの盟主」の座を奪われた気分を背景に、「取り戻せ」とか「守れ」とかいうことばを連呼して多くのみなさんの支持を取り付けた、その「国を守れ」への支持率はどうなのでしょうか。その支持率は変わらないという自信をもって、違憲違憲だとむしろいわせておけば、次のステップで、「だから国を守るためには改憲が必要だ」、という道に踏み出しやすい、などと考えている連中が、もしかすると、どこかにいるかもしれません。いや、もしかしてではなく、むしろ当然いるでしょう。
 アベの安保関連の説明や国会答弁の幼稚さがいわれています。祖父、おじ、父の東大に囲まれながら、中高一貫大学を出てアメリカの何とか大学に入ったものの政治学を学んだわけでもなく中退し、ポツダム宣言も読んでいないという、なかなか骨のある経歴ですが、今の説明や答弁の幼稚さは、そういうこととは関係ありません。「違憲」についてはむしろいわせておけばよい。とにかく、「国を守る」ということについて、単純幼稚な国民に、できるだけ「単純幼稚に」理解させて支持率を維持しておけば、次には、「国を守る」のが違憲なら「それじゃ改憲」、という方にコマを進めてゆける。
 ということで、単純幼稚な国民には、単純なたとえ話が一番と、一緒に道を歩いていた友人が暴漢になぐりかかられたらどうするのかとか、隣家が火事になったらどうすればよいかとか、実に単純幼稚なたとえ話を使って「ご理解いただこう」としているようです。アリとキリギリスの話をすれば、ギリシャ問題は「なるほど分かった」という国民相手には、この程度の単純幼稚な話で十分なのだ、てな考えなのでしょう。
 けれども、それならこちらも、できるだけ単純幼稚な話で比較してみましょう。「軍事的に国を守る」ということは、暴漢から友人を守るとか火事から家を守るといった、日常的に単純で切実な「守る」こととどこが同じなのか、あるいは違うのか。
 まず、何を守るのかですが、110番通報で駆け付けた警官は市民の命を守り時には暴漢の命も守りますが、ノモンハンで軍隊が守ろうとしたのは、人の命ではなく、「何百里離れて遠き」ただの原野です。周辺の遊牧民たちが(別に喧嘩もせず)家畜を連れて行ったり来たりしていた土地に線を引き、「線を越えれば撃ち殺す」、こちらから「線を越えて追っかけて撃ち殺す」。それが、関東軍のしたことでした。同様に、周辺の漁民たちが(別に喧嘩もせず)入り混じって魚をとったり嵐を避けたりしてきた「何百海里離れて遠き」無人島を守るために、あるいは、もっともっと遠い海に浮かぶアメリカの船を守るために、人を撃って殺したり、人の乗った船を沈めたりすることをしようというのです。
 もうひとつ、決定的に違うところがあります。例えば警官や消防士も、時には危険を顧みずに人命救助に当たるでしょう。しかし、仮に暴漢が、銃やライターを手に人質とともに建物に立てこもった場合、警官隊は、慎重にも慎重に、時間をかけて説得するでしょう。犠牲者を出さないこと、人命を守ることが大事だからです。しかし、例えばノモンハンでは、現地の守備隊どうしの間では話がついて収まりそうだったにもかかわらず、「チャンスだ」と捉えた辻参謀らが乗り込んで行って、戦闘作戦つまり「人を殺す」作戦を立て、結局合わせて数万人の命が失われたのでした。
 警察の場合、いかに猪突型の隊長でも、「銃をもっているのは一人か、じゃただちに10名で飛び込め」などいう命令は絶対出しません。犠牲者も出さないために、できる限りの説得努力をするでしょう。けれども軍隊は全く違います。「銃の残りは推定4発か。では10人で飛び込め。4人撃たれても6人で制圧できる」、というのが、軍事作戦というものです。戦闘は兵士の死者数で決し、作戦は兵士の歩留まりを織り込んで立てられます。辻のような参謀は、兵士の生死の歩留まりすら軽視して、無謀な戦闘に兵士を突っ込ませたのですが。
 それでも「戦争にはなりません」、とアベはいいます。多くのみなさんも、そう思って安心しているのでしょうか。けれども、いま、たいていの国は、宣戦布告から始まる古典的な「戦争」はしなくなっています。「ベトナム戦争」「イラク戦争」「アフガン戦争」などなどは、ご承知のように本格的で大規模なものですが、アメリカにとっては、「武力制裁」とかいうことになるのでしょう。
 その点でも、日本軍は大先輩です。数万の兵士、大量の戦車、大砲、飛行機まで投入した本格的な戦闘で、多くの兵士が死んでいっても、「あれはノモンハン「事件」であって戦争ではない」、ということになっています。「「満州事変」「支那事変」も文字通り「事変」であって戦争ではない。日本はアジアで「戦争」していない」。
 「戦争はしません。戦争にはなりません。たとえ日本軍もとい自衛隊の「後方支援」が、状況によって戦闘行為に移行しても、それは「武力行使」であって、断じて「戦争」ではありません。
 今後、「わが軍」もとい「自衛隊」は、戦闘になることを想定して、武装して海外に出て行きます。そして必要な軍事行動をします。戦闘になるかもしれません。なるでしょう。いずれなります。「軍の仕事」は説得ではなく、人命第一ではなく、武装した軍団が、作戦を立て、組織的に人を殺すことです。「戦争」はしません。しかし「戦闘」については、今後はやれます。必要ならやりますよ。」
 (幼稚なことを書いてはずかしいことですが、暑さに免じてお許しください。)