戦争は嫌だという個人主義

 次から次へと、もう驚かなくなったが、今度は、「「戦争は嫌だ」というのは、けしからぬ個人主義だ」、とのこと。発言は撤回しないそうだからことばが滑ったのでもなく、もちろん、彼ひとりだけの思いでもない。それにしても、若者に鉄砲やミサイルを持たせて、何を守らせようというのか、と思えば、「戦争は嫌だなどというが、それで領海は守れるか」、と続けている。やはりそういうことである。遠い海に引いた線を守れ、戦争してでも守れ、死んでも守れ。もちろん自分は議事堂にいて、若者に命令するのである。まともな若者なら、誰だって「嫌だ」というだろう。そこで、あんな若者が育ったのは、戦後教育のせいだ、と、戦後教育に腹を立てている。
 だとすれば、戦前の教育を受けた者は、「戦争を嫌がらなかった」、「個人主義ではなかった」、というのか。バカをいってはいけない。日本を守れ伝統を守れなどというクセに、肝心の日本を全く知らない。例えば、お札にまでなった日本を代表する文豪は、当時としては群を抜いて長期間、最高の「戦前教育」を受け、そして「戦前教育」の教師にまでなったのだから、これ以上の「戦前教育」はない。ところが、その彼が、戦争に行くのは嫌だと、戸籍まで変えている。「私の個人主義」という演説をし、何より「自己本位」だと主張し、博士号をくれようとしたとき、「嫌なものは嫌だ」といった。「戦争は嫌だ、行きたくない、嫌なものは嫌だ、自己本位だ、個人主義だ」。最高の「戦前教育」を受けた漱石は、そういったのである。
 大体、戦後教育にそんな力があるなら、「戦争は嫌だというのはけしからん」というようなアキれた人物に票を入れる者などいなかっただろう。あるいはまた、戦後教育さえなければ若者は喜んで戦争に行くというのなら、世界に「徴兵制」など不要であろう。「徴税」「徴兵」の「徴」は、戦争に行くのは嫌だ税金を払うのは嫌だと隠れている人間や金を、おカミが見つけ出して「取り立てる」という意味である。もちろん世の中には戦争を煽る者もいれば、辻のように兵士を使い捨ての駒にして戦争することが何より好きだというトンでもない男もいるが、駒にされるのは庶民である。兵隊に「取られる」のは嫌だ、死ぬのは嫌だ、第一明日から誰が畑を耕すのか、どうやって残された家族が暮してゆくのか。明治期には、徴兵制に反対する「血税一揆」まで起こっている。
 それでも、戦争に行くのは嫌だ、とデモをしている若者たちがいる一方で、多くの若者たちは、「もちろん戦争は嫌だけど、戦争法案が通っても、まさか徴兵制にはならないだろうし」、と思っているのかもしれない。
 それが心配なら、多分「徴兵制」が敷かれることはないだろう。なぜなら、「徴兵制」よりも、もっと便利な「社会技術」が、アメリカで開発されているからである。傭兵部隊を雇ったり戦争会社に委託する方法、「反乱軍」や「テロリスト集団」を利用する方法、無人兵器に闘わせる方法、またCIAなどが担当するさまざまな裏の方法、などのことをいうのではない。「貧困大国アメリカ」(堤未果)では、もっと確実で巧妙な、画期的徴兵技術が発達している。タテマエだけでも「公平で平等」に、誰もが同じ医療を受けられる「保険制度」、誰もが戦場へ行かねばならない「徴兵制」、そんなものは、ケシカラん「社会主義」である。徴兵制度など必要ない。たまたま軽い病気になった貧乏人の若者には、超高額の請求書を突きつければよい。金もないくせに大学に進学しようなどという若者には、無理に高額の学資ローンを組ませればよい。そして、若者にロクな職業を用意しなければよい。そして実際、貧しい若者たちには、兵士になる他に道がなく、兵営の門をたたくのである。
 多分、徴兵制にはならないだろう。TPPとともに、日本もアメリカ化されてゆく。望まなければ、兵士として戦場に出ることを強制はされないだろう。ただしそれは、金持ちの御子弟様「限定コース」である。そうでない若者諸君は、いまが考えどころである。「戦争してでも国を守れ」と叫ぶのがよいか、「戦争は嫌だ」と叫ぶのがよいか。