三木清:獄死前後3

 ヒストリーつまり「書かれたもの」を、歴史とか物語とか小説とかに分けるのは、図書館や本屋の都合でしかありません。本にしても論文にしても、これはどの資料の何ページにあると、出典の注記をやたら付けたものがありますが、あれは、「真面目な」書き手が、確実性を装うための手段ですから、普通の読者が、いちいちページをひっくり返してそういうものを気にしながら読む必要はありません。
 例えば、問題の敗戦の夏。徳田球一や志賀義雄らは、府中刑務所に(彼らの場合も「刑務所内予防拘禁所」といった方がよいのですが、ともかくそこに)いたのでした。で、8月15日、例の「重大なラヂオ放送」を聞いたというのですが、それが仮に本当のことだとして、二通りの証言があります。一つによれば、聞き取りにくいその声を聞いた徳田らは、バンザイバンザイと手を取り合い涙を流して大喜びしたというのですが、もう一方によれば、その声が流れた時みな変に静かで、徳田は「憮然」としていたというのです。私は後者に近いのではないかと思いますが、もちろんこれはどちらかが嘘だというのではなく、多分、両方とも正しいのでしょう。結局どちらを「書く」のかは、どちらが「徳球」らしいと書き手が思うか、ということによるのであって、一方の証言しか知らない書き手が出典を注記すればそちらが正しくなるということではありません。
 三木が二度目に検挙されたのは、前述のように3月28日のことで、岩波書店小林勇といた時、二人連れの特高刑事がやってきたのでしたが、その時三木は特高に向かって、「自動車で来たか。天下の三木を連れて行くなら、自動車で迎えに来い」と啖呵を切ったという証言と、ただ「自動車ですか」と聞いただけで、階段を下り、両側を特高に挟まれて通りを歩いて行った、という証言があります。これについても、三木は少し前から、危ないかもしれない、心配だ、と小林勇に打ち明けていたということですし、一回目の1930年とは異なり、この年には逮捕がどういう意味をもっているか彼には十二分に分かっていた筈ですから、多分後者に近かっただろうとは思いますが、それでもこれについても、前者のように書く書き手がいても、それはそれで構わないわけです。