三木清:獄死前後13

 さて、少し先に進み過ぎたので後に戻るが、その前に、思いついてWikipediaの「三木清」の当該個所を参照してみた。以下がそれである。
 これまで、細かいことにこだわりながら「どうでもよいことだが」と、その都度断って来たが、起こったことは、基本的には、こういうことだったのだろう。
 (引用、ただし注記は省略)「1945年、治安維持法違反の被疑者高倉テルを仮釈放中にかくまったことを理由にして検事拘留処分を受け、東京拘置所に送られ、同6月に豊多摩刑務所に移された。この刑務所は衛生状態が劣悪であったために、三木はそこで疥癬をやみ、それに起因する腎臓病の悪化により、終戦後の9月26日に独房の寝台から転がり落ちて死亡しているのを発見された。48歳没。終戦から一ヶ月余が経過していた。遺体を収めた棺は2日後、布川角左衛門が借りた荷車を用い、東畑精一宅に引き取られた。
 中島健蔵が三木の通夜の当日に、警視庁への拘引から7月下旬まですぐ近くの監房にいて詳しく様子を見たという青年から聞いた話として記しているところによると、疥癬患者の使っていた毛布を消毒しないで三木に使わせたために疥癬に罹患したという。
 三木の通夜の席で、三木や尾崎秀実、戸坂潤と親交のあった松本慎一が「政治犯即時釈放を連合軍に嘆願しよう」と提案したが、その提案が唐突過ぎ、また場所柄もふさわしくなかったために、用意した嘆願書の草案を取り出すことができなかった。
 たまたまこの三木の死を知ったアメリカ人ジャーナリストの奔走によって、敗戦からすでに一ヶ月余をへていながら、政治犯が獄中で過酷な抑圧を受け続けている実態が判明し、占領軍当局を驚かせた。旧体制の破綻について、当時の日本の支配者層がいかに自覚が希薄であったのかについての実例である。この件を契機として治安維持法の急遽撤廃が決められた。そもそも三木が獄中にとらわれていたことを親しい友人たちですら知らされないでいたことも、当時の拘禁制度の実態を表している。三木の死によって、1945年は、西田幾多郎三木清、そして戸坂潤の三人の師弟が同時になくなるという、哲学界にとっても実に喪失の大きい年となった。法名は、真実院釋清心。」(後略。引用終り)
 余計なことを先ずひとつ。「遺体を収めた棺は2日後、布川角左衛門が借りた荷車を用い、東畑精一宅に引き取られた」という個所に、全集月報の注記がある。私も見た筈だが、いい加減なので見直してみると、確かに布川は、「翌々日の夕方である」と記している。私はいい加減に、「多分28日の夕方」と書いたり「翌27日夕方遺骸が自宅に戻ったのなら」と書いたりしてきたが、これは28日で多分確定だろう。となると、想像の火葬は29日か。
 次に、「東畑精一宅に引き取られた」という点であるが、布川は、ただ「お宅まで運んだ」と記している。「東畑先生のお供をし、〜高円寺のお宅の近くで訳もいわずに借りて来た荷車をひいて、拘置所へいった」、そして「中野の通りをひどくガラガラとひびく車の轍を気にしながら、お宅まで運んだ」。
 荷車を近くで借りた「高円寺のお宅」と「お宅へ運んだ」その「お宅」は、この文からは、なるほど同じだと読むのが妥当だろう。しかしそうなのか。互いに近い三木宅と東畑宅、それに豊多摩拘置所と「中野の通り」。あの辺りに詳しい人に、それらの位置関係を確かめて頂きたい気もするが、東畑先生のお宅」だとすると、想像した通夜密葬が28-9日に東畑家で営まれ、2-3日の通夜告別式は三木家で行われた、と修正することになる。なお、2日の通夜の場所が三木遺宅であったことは、祭壇がどの部屋のどこに設置されていたかという証言までも含めて、いくつも証言があるので間違いない。
 しかし、東畑家はどこにあったのか。誰かがどこかで「5分ほど離れた」と書いていたような気がするのだが、Wikipedia東畑精一」に「自家(東京都中野区千光前町。現在の中野2丁目)」とあるのがそうだろうか。
 ついでにもうひとつ。全集の年表によれば、結婚後三木は、短い期間で何度も転居を重ねているが、並べてみるとこうある。
 29年4月に、結婚して新居を「杉並区高円寺4−537」に定める。
 30年3月、中野区宮前町に転居。
 32年10月、杉並区阿佐ヶ谷1−868に転居。
 そして35年の9月、杉並区高円寺4−539に転居。この家は、「喜美子夫人が学生時代に令兄(東畑精一)といっしょに住み、結婚のときにそこから輿入れした家であり、また著者自身も葬式をされることになった家である」。
 結婚後の新居「高円寺4-537」と葬式をした「高円寺4−539」は(誤植でなければ)僅か2番地ちがい。これも分からない。
 全くもって余計なこと極まりない詮索に過ぎないが。(続く)