三木清:獄死前後2−1

 さて、長々と余計なことにこだわってしまったが、ある意味ここからが本番である。番号を「2−1」に改めて次に進む。
 これまでは三木宅周辺に視点を置いてみてきたが、次に、新聞の見出しにズームアウトして整理してみると、ごく小さい三木清の死亡記事の後、事態は次のように展開する(なお新聞は朝日である)。
 9月26日、三木清が獄死した。→【新聞】9月30日、三木清死亡記事
 10月3日、内務大臣、法務大臣が、それぞれ外国人記者にインタビューされた。→【新聞】10月5日記事
 10月4日、GHQから政府に、いわゆる「人権指令」が出された。→【新聞】10月5日、トップ記事
 10月5日、東久邇内閣が総辞職した。→【新聞】10月6日、トップ記事
 10月のできごとに、強い因果的関連があることは分かっているが、先ず、三木の死亡(記事)から、両大臣のインタビューまでの間、つまり10月の1日と2日の二日間に、何があったのか、あるいはなかったのか。(続く)