三木清:獄死前後12

 どうでもよい話ながら、あるいは、こういうことかもしれない。
 代々の土地に住む人とは異なり、三木家のように東京に出た人の場合、そして時代も合わせると、どのようなことが考えられるか。全く不案内ながら、その年のカレンダーによれば水曜日である26日の午後死亡。翌27日夕方遺骸が自宅に戻ったのなら、季節も考えると、翌日火葬の手配がされたのではないだろうか。あるいは次の日か。いずれにしても、電報を受けて娘も戻り、通夜と密葬的な葬儀と火葬が27〜28日(木金)または28〜29日(金土)にあったと想像するのは、それほど的外れではないかもしれない。今と事情が違う焦土の東京ゆえに、東畑家以外の参列者は少なかっただろうが、岩波関係者はいただろう。
 そこで、密葬とは別に、友人や関係者にできるだけ連絡をとり、岩波の世話で2日通夜3日告別式をしようといういう段取りを決め、29日に新聞社に連絡するか問い合わせがあって答えたか。ということで30日に「3日告別式」という死亡記事が出て、連絡の取れた友人たちが2日夜に集まった。多くの友人が徹夜明けのまま午前中に読経、焼香の儀式に参列。友人たちにとっては、当然通夜の方が印象に残り、翌日のことは取りたてて日記に書く程のことではなかった・・・・。
 もちろん全て想像である。中野の正見寺にある三木清の墓にすら行ったことがなくて書いている。(続く)