帝国の慰安婦:安堵の共同性20

 (承前)今日は、完全な言いがかり、いちゃもんモンスターでしかありません(^^)。はじめにお詫びしておきます。
 『帝国』という本と『忘却』という本。まだ開いてもないわけですが、ごくごく大まかにいうと、「帝国」は、元慰安婦を怒らせ、かなりの韓国人を不快にさせ、しかし日本の知識人に高評価で迎えられた本、一方「忘却」は、「帝国」を批判し、日本知識人の「帝国」持ち上げを批判した本、ということになるでしょう。いや、それは違う、そもそも「帝国」に怒ったり不快になったりすること自体が誤解によるものであって「帝国」はそんな本じゃない、とかいわれるでしょうし、その他いろんな検討が必要ですが、それは後回しにして、いまはただ、ごくごく表面的で大まかな話です。乱暴な断定だとお叱りを受けるでしょうが、今日はモンスターなので気にしないのです(^^)。 
 ところで、もうひとつ、両者には対比点があります。「帝国」は、韓国で出版されてしばらく読めたのに、発禁で読めなくなったようです(現在はどうなっているのか知りませんが)。一方「忘却」は、(日本で)なかなか出版できず、だから当然読めず、後にようやく出版されたということですが、現在でも、少なくとも「帝国」に比べると、知られず売られず、だからなかなか読みにくいといった現状ではないでしょうか。ちなみに私は、近所にある図書館3館を時折利用するのですが、「帝国」は3館全てに置いてありますが「忘却」はどこにもなく、もちろん本屋にもなくてアマゾンで買いました。
 ということで、「読むのに苦労する」という点は同じですが、その理由には、大きな違いがあって、「帝国」が「読めない」事態となったのは、(事実上の)発禁という目に見える権力介入によってであって、上野千鶴子高橋源一郎氏らが抗議の「声明」を出されたのは、言論人として当然の行動といえるでしょう。
 一方、「忘却」はそんな言論弾圧なんてものには全く無関係です。それなのになかなか出版できなかったのは、単純なことで、引き受けてくれる出版社が見つからなかったからとのこと。そしてまた、出版されても、知られず売れず図書館などにも置かれず従って簡単には読めないのは、どこにも紹介されず書評されず取り上げられなかったからでしょう。そういった動向に全くうとい私の誤解かもしれませんが、少なくとも「帝国」に比べれば差は歴然だと思います。
 大手の出版社が、昨今の風潮の中で、日本知識人に好評な「帝国」は売れても、それを批判した「忘却」は売れないだろうと思ったとすれば、それは経営上の判断です。もしかすると、読者に売れないだろうというだけではなく、「帝国」を評価する書評や紹介文などを書かれた先生方の「意を解して」といったこともあったのかもしれませんが、それもまた経営上の深慮であって、どこかから「弾圧」があったからでは全くありません。民放局が、製薬会社を怒らせるような番組を作らないのは、経営上の判断によるのと同類です。
 政治家や裁判所の意向が、目に見える法的規制となって、本が出版できなかったり読者が読めなかったりすることと、高名な知識人の評価や紹介が、目に見える売れ行き予測を通して出版社の経営判断に影響を及ぼし、結果出版が困難になったり読者の目に触れにくくなったりすることと。もちろん両者は、全く次元を異にするどころか、ベクトルが正反対です。政治家が特定の本を発禁にするのはけしからぬ弾圧であり、抗議しなければなりません。一方、知識人(だけではありませんが)が何を取り上げ何を評価し何を紹介するかは、全くその人の自由です。前者は言論の自由の弾圧、後者は言論自由そのもの、水と油の関係です。そうなのですが、目に見える弾圧のない社会であっても、目に見えない制約の中に暮らしているという事情は、心にとめておいてもよいかと思います。
 上野氏も高橋氏も、とびきりの高名知識人ですので、著書はもちろん雑誌や新聞のコラム等に名前を見かけない日がない、というとオーバーかもしれませんが、とにかくすごい方々です。文字だけではなく、私はある曜日に少し距離のある場所まで車に乗ることがあるのですが、カーラジオで高橋氏の番組を楽しく聴かせて頂いています。コラムでも番組でも、ちょっとした紹介、言及でもあれば、あるいは知り合いの出版社でちょっと口にして頂いていれば、私の近くの図書館3館のどこかで「忘却」を借りられて、私の本代が助かっていたでしょう。そして、もし「忘却」の紹介とかを読んだり聞いたりしたとすると、「おお、さすがフェア」と、私はますます両氏に対して敬愛の気持ちを深めていたでしょう。
 私が知らないだけで、実は紹介や言及をされたのかもしれません。いや、多分そうではなくて、「帝国」は取り上げるに足る本だが、「忘却」の方は取るに足りない本だと判断されたのでしょう、自主的に、自由に。
 以上、今日は、全くのつまらぬ言いがかり、イチャモンでした。政治の論理による目に見える弾圧がなくても、出版社の経営判断という資本の論理の正しい適用によって、私の財布から、いくらかの金が消えたのでした。願わくば、他国の政治的弾圧に抗議するその情熱の百分の一でも使って、「帝国」だけでなく「忘却」をも、私が図書館で読めるようにしていただきたかった、というのが、本日のケチなイチャモンでした。おしまい。(続く)