武士道について9:官僚の道

 そうそう、『葉隠』のことが残っていました。
 新渡戸の『武士道』と違って、分量が多いし、雑多な短文の集りだし、多分、最後まで読んだ人は極く少ないのではないでしょうか。葉隠といえば有名な「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一節は、はじめの4、5行目に出てきますので、あとは読まなくても、読んだ気になれますしね。
 これを書いた山本常朝というのも大層ヘンなおじさんで(書いたのは隠居してからですからヘンなジイさんですか)、長々と書いたのに「こんなものは燃やしてくれ」と自分でもいい、藩でも禁書にされてしまいます。
 ・・・と書き始めましたが、その前に、当時の「まともな」(とされた)士道論を極く簡単に見ておく必要があります。『葉隠』が当初禁書となったのも、著者常朝が「まともな」士道論に言いがかりを付けたからでした。
 私は江戸時代の儒学のことなど何も知りませんが、幕府が出来て武士たちがひとつの体制に組み込まれると、「卑怯で結構、裏切り者で大いに結構。犬畜生と思われようと、勝つのが武士だ」みたいな中世的な武士の生き方は大変まずいということは、誰にでも分かります。闘いの時代が終わると、革命家も武士も闘士や戦士から官僚となるのが歴史の必定。幕府は武家諸法度を定め、林家朱子学を官学として、君臣上下の秩序を守る「良き官僚の道」を説かせます。剣豪の五輪は時代遅れ、儒者の説く五倫が時を得ることとなったのです。「兵法家は道理を知らない」(貝原益軒)。「仁義の道に背いて自分のために行動するのは盗賊であって武士ではない。強いだけなら強犬と同じだ」。「学問をして才智を高め国を治めることをしないで、人を武力でおどして国を治めるのは馬鹿者だ」(中江藤樹)。
 「武士は、耕さずに食べ、作らずに使い、売買せずに利用する。それが許されるのは何故か」。「武士という職は、一身をあげて主君に仕え、身を慎んで義を行い、人民の模範となり、人民の暮らしを守らねばならない」(山鹿素行)。・・・封建の世ながら、なかなか立派な官僚心得であります。それにひきかえ、アベを筆頭に最近の政治家官僚は「身を慎まず、人民の模範とならず」。「会ったこともない」、「寄附なんかしていない」。
 もちろん、山鹿流といえば忠臣蔵で、主君のために義士として死んだといわれもしますが、討ち入りプロジェクトの成功もまた、大石が沈着冷静深慮遠謀、よく組織を動かす名官僚だったが故でしょう。
 『葉隠』の常朝は、そんな忠義を罵倒するのですね。赤穂藩士らは、主君の切腹を知って直ちに泉岳寺切腹するか吉良邸に斬り込んで討ち死にすべきであったのだ。山鹿素行のような儒学的武士道なんぞ「上方風のつけあがりたる武士道」であって、狂い死にこそ真の武士道だ。(続く)