自然に死ぬ1

 暑い日が続いていますが、夕立とはいえない長い雨もあり、時に涼しい風を感じないこともありません。
 人類に温暖化の責任があるということはその通りでしょうし、昨今の異常気象や大国の国際協定離脱など、先行き不安な昨今ですが、それでも、今のところは、秋が来ないというわけではありません。春になれば春が終わり、夏になれば夏が終わり、花が咲き花が枯れ、蝉が鳴き蝉が死んで行く。
  ある朝の蝉の屍悼みすぐ忘る  安住敦
  永久に生きたし女の声と蝉の音と  中村草田男
  死後涼し光も射さず蝉も鳴かず  野見山朱鳥
 蝉は、死にたくて死ぬわけでも、生きたいのに死ぬわけでもなく、気がつけばということもなく、ただ生きてただ死ぬだけの話ですが、しかし、蝉にまでややこしい気持ちを託したりする人間は、単純にはゆきません。
 先日、NHKの番組を見ました。といっても録画されたものを後日見ただけですし、それからもかなり経っていますので、十分な記憶があるわけではありません。ただ、国破れた墓参の季節に蝉の声を聞きつつ、先日書いたメモを思い出しましたので、少しリライトしながら、筆の途切れを埋めてみることにしたいと思います。
 番組の名前は多分「延命中止」で、副題が付いていたと思いますが、両方とも忘れました。がともかく、問題になっていたのは、人工呼吸器を「付けたままにするか/外すか」という選択についてでした。
 もちろん私は、末期医療のことに詳しくありませんが、かつては確か、「外す」という行為は殺人になってしまい、選択肢にはなりえなかったのではないでしょうか。しかし今はそうでもなくなっているのか、というより、番組自体が、今までのタブーを破るべき時が来ているのではないか、「外す」という行為を選択肢とすべき時が来ているのではないか、という提案になっているようでした。
 NHKのことですから、提案と行ってもかなり慎重な作りになっていましたが、ただ、番組では、人工呼吸器を「外さないか/外すか」という選択が、最初から、「延命するか/自然の死を迎えるか」の選択、と表現されていたと思います。記憶違いでなければですが。
 けれども、蝉とは違い、人間にとって、「自然の死」とはどういうことなのでしょうか。そんなものがあるのでしょうか。
 もし「自然」ということばにこだわるのなら、かなり長い間、私たちは、「生きたい」と願うのが人の「自然」だとして、その自然に逆らって生命を断つ「人為」を、「殺す」あるいは「死なせる」と他動詞的に表す語法世界で生きてきました(たとえそれが自らの生命を断つ行為であったとしても)。
 ところが、番組では逆に、装置を「外す」という他動詞行為によってもたらされる死が「自然な」死であり、人工呼吸器による生命維持は、(「自然的」ではないから「不自然的」な)人為的「延長」である、とみなす語法によって、この問題を考えるよう誘導されます。
 もちろん番組でも、「外す」という行為は「殺す」ないし「死なせる」行為ではないのか、という葛藤、ためらいが取り上げられます。それでも、外してから数分か数十分後の死を、「自然に死ぬ」と自動詞表現することで、「外す」行為の他動詞性が薄められます。(続く)