自然に死ぬ2

 「自然」もまた社会的・文化的な、従って歴史的な概念ですが、「人工、人為」と対比する最も素朴な意味でいうと、全ての医療行為は、単なる投薬も含め、「自然な」身体過程への「不自然な」介入といえます。それでも、もちろん私たちは、例えば今も世界のどこかで医療の手が届かないまま死んでゆく多くの子供たちについて、医療介入がない故の「自然な死」などと表現することはありません。
 それなのに、何故私たちは、呼吸装置を「外す」行為によってもたらされる死については、「自然な死」という表現に違和感をもたないのでしょうか。それは、子どもたちとは違って、寝たきりの老人たちには「死」が「自然」だ、という暗黙の社会的合意ができつつあるからでしょう。
 もちろん、医療に限らず、留まることのない技術進歩について、それがいまや「不自然」な領域、入ってはいけない領域に入ろうとしているのではないかという危惧の念を私たちが抱いていることもまた、背景にはあるのでしょう。それにしても、呼吸器を「外して死なせる」という他動詞行為を、「自然に死ぬ」と自動詞表現することは、寝たきり老人を「死なせる」ことに後ろめたさを感じないですむ安堵装置として働きます。
 しかし、なぜいま私たちは、寝たきり老人に「自然に死」んでもらいたいと思うのでしょうか。もちろんそれは、高齢化がますます進み、老人への介護が家族や社会の大きな負担となり、介護医療費が財政を圧迫しつつある、という問題があるからでしょう。
 「公共」放送が視聴者に、「延命中止をタブーのままにしていいのでしょうか」、と問いかけ、いわば「人為的な自然死」(今日最初に書いた定義では矛盾概念ですが)への合意形成の道を模索しようとする背後には、視聴者つまり社会に拡がる、老人は適当な時期に「自然に」死んでもらわないと大変だという危機感から来る、ひそかな、あるいはあらわな、願望があります。(続く)