自然に死ぬ4

 「死は常に他人事である」、と哲学者や作家がいっています。山田風太郎氏は、有名人の死に際を集めていて、中には作家も大勢含まれていますが、誰ひとりとして本人が書いたものはありません。三島由紀夫は、自分が産れた際の記憶があると威張っていましたが、死については、どんな作家も「まだ死んでいない」としか書けないからです。
 とはいえ、蝉とは違って人は、まだ来ていない自分の死について、何かをいうことができます。例えば、「私は死にたい」とか、「延命は望まない」とか。しかし一体、それは誰がいうのでしょうか。 
 「私」とは誰か、などという難しい問題は考えないようにしますが、ともかく「私」といったって、社会関係の複合体であること、むしろそうでしかないことは、例えば、行列の先がどんな店かも分からないまま「私は食べたい」と並んでいる人をみれば分かります。
 いい例ではありませんでしたが、とにかく、私の「自由な決定」というようなものもまた、社会的諸関係の中で「自由な決定」だと思うことを許された、あるいはむしろそう思わされた、決定に過ぎません。もちろん、そう思うことができることこそが人が自由な存在だということだとか、そう思わされているとしてもそう思わされることを選んだのだとか、そんな風にいっても別に構わないし、実際そういっている人もいるわけですが。
 いずれにしてもしかし、世間は、そういうややこしい話には乗らないで、ある意味単純です。「私は食べたい」といっても、「うそ。あんた、こんなもの食べたいわけないじゃん」と一蹴されてしまったり。「どうしてそんなこというの?」と追求されたり。世の中、「食べたい」といえば「食べたい」のだと必ず素直に受け取られるほど甘くはありません。 
 では、「死にたい」はどうでしょうか。もちろん基本は同じです。(続く)