自然に死ぬ5 

 (緩和及第、話を戻します。)
 ご承知の通り、世の中、「死にたい」といっても素直に受け取ってはもらえません。青年や子どもがビルから飛び降りて救急病院に運び込まれたとすると、ありがたいことにというべきか、つらいことにというべきか、たとえ遺書らしきものがあったとしても、リビングウィルがどうとかためらい悩むことなく、医療スタッフは、とにかく必死に生命を救おうとします。人もまた蝉やクジラと同じく「生きる」ことが「自然」(自ずから、本来)であり、「生きたい」が「本意」であって、「不本意」にも彼らは死のうとしたのに違いない、という基本了解があるからです。
 救命医療にまかせるだけではありません。私たちは、「生きたい」は自然であって理由は不要だが、不自然な「死にたい」には理由があるはずだと考え、彼らが「不本意」な行動をとるに至ったその「理由」を問います。そして、青年が会社で過労を強制されていたとか、子どもがクラスでイジメにあっていたとかいう「理由」が分かると、カウンセリングなどによって、何とかして当人を生きたいという「本意」に戻すと共に、過労やイジメの問題を解決することによって、「不本意」な行動を減らし、なくすことこそが、私たちの社会にとって痛切な責務だと考えます。
 ところが、寝たきり老人の場合、「死にたい」が理由不要な「自然な本意」だとみなされると、「死にたい」という人々に何とかして「生きたい」意向を取戻させるといったことは、不要な努力になります。また、「死にたい」青年や子ども生む現代の企業や学校のあり方を社会問題として追求するようには、「死にたい」患者を生む介護体制のあり方を問題にするといった必要がなくなります。
 身も蓋もなくいえば、「死にたいのなら、そのまま死んでもらいましょう」という、会社務めの青年や学校に通う子どもには絶対いわない言葉を、ある人々に対してはいうのであって、もちろんあからさまにはいわなくても、それでも聞こえ、それがまた「理由」にくりこまれてゆくでしょう。
 ところで、いま、「老人に対しては」と書かずに、「ある人々に対しては」と書きました。(続く)