自然に死ぬ3

 数日前に、NHKで「731部隊」についての歴史ドキュメンタリーが放映されたそうで、見ていませんが、評判が高いようです。というより、権力的にかたく隠蔽され続けて来たこの問題については、取り上げたこと自体が、既に高く評価されるでしょう。
 「延命中止」についての番組も、全体としては、悪いものではなかったのかもしれません。少なくとも間違いないのは、周到で慎重に作られていたことです。
 延命中止による死を「自然な死」とすれば、逆に、延命は「不自然な生」ということになりますが、とはいえ番組では、もちろん、「介護や医療への社会的負担が増している中、老人には自然に死んでもらうのがよいのではないでしょうか」などと、あからさまな提案をしたりするわけではありません。「呼吸器を外してはいけないのでしょうか?」というのがメインの問いですが、その後に、「中止による死は自然な死であり、中止しない方が不自然な延命だといえてもですか?」とつけ加えたり、ましてや、「老人医療負担が増加してもですか?」などと、あからさまに誘導したりするわけではありません。 
 代わりに、ひとつの問いが重ねられます。「不自然な延命を中止することはいけないことでしょうか?」・・「本人が望まなくても?」
 こうして、番組では、「延命するか/しないか」、「生か/死か」という選択肢が、「私が望むか/望まないか」という選択肢に置き換えられ、決定が<私>に委ねられようとします。
 だが、私の生死の選択が委ねられる<私>とは、誰なのでしょうか。いやむしろ、こう問うべきでしょう。私の生死の選択が私に委ねられるとは、どういうことなのでしょうか。誰が私に委ねるのでしょうか。誰が私に決めさせようとするのでしょうか。(続く)