アジア4

 ちょっと、どうしようもないいい方をしますが、いったい思想とは、というより「思想がある」とは、どういうことなのでしょうか。
 例えば、こういう風にいったとします。「西洋近代」は、理性を万能とする合理主義で貫かれ、主客を分離して、思考する人間主体が客体としての自然世界を支配し作り変える権利を持つと主張し、このような傲慢な理性への自己過信から、世界規模の環境破壊や、非合理世界とみなされる非西洋の植民地化を正当化する・・・。ちょっと怪しい文になりましたが、それでも、まあそんなところが確かにあるわけです。
 もっとも、一応最近は、環境破壊にしても植民地支配にしても反省はしており、ポスト近代の課題は理性万能でやってきた西洋中心主義からの脱却だとか何とか、そんなようなことをいったりする人は西洋にもいるわけですが。
 ただ、西洋近代がイカンというのは、その通りだとして、それはどういうことなのでしょうか。「近代」がイカンのであって、西洋でも中世までは、牧歌的な田園の四季の暮らしがあって鳥と会話する宗教家などがいたりもしたのに(もちろんどんな時代にも過酷な支配や悲惨な戦争があったことには目をつぶってですが)、ということでしょうか。だとすると、例えばアジアなど非西洋には、なお「近代以前」が残っていて、四季の暮らしや鳥との会話がある、ということで、つまり非西洋は、いわゆる「聖なる野蛮」だとでもいうことになるのでしょうか。
 けれども、風を読み雲に聞く長老はすごいがやっぱり気象レーダーの方がすごい、漢方医もすごいが西洋医には勝てない、というように、「近代」がイカンといっても、残念ながら「近代化」の流れは止められません。で結局、「近代化」を進めて野蛮から抜け出し「脱亜入欧」すべきだなどと言い出すことになってしまいます。
 では、「近代」ではなく、そもそも「西洋」がイカンのだというのはどうでしょうか。例えば、古代以来のキリスト教の愛の背後には一切を支配する父なる神の力があり、その神から理性を与えられ地上の支配権を委ねられた人間が、我思う故に「我が有る」のだと、「有」の思想で主客を分かち、傲慢にも自然を支配し作り変えるまでに至る、とか、まあそういった風に。
 それに対して東洋では、色即是空空即是色、「色々あっても実は無く、無いのに色々多様にある」という「無」の思想で、主客を分かたず、梵我一如、宇宙も我も「一つ」だとして、「みんな違ってみんなよい」。そのような宗教あるいは思想が確かにあると。
 ということで、「西洋の栄光」がもたらす「東洋の屈辱」に連帯して「抵抗する」という意味で「アジアはひとつ」、というだけではまずい。アジアに殉じようとしても、おそらくそこに「実態はなく方法があるだけ」だということではなく、アジアは、「無の思想」あるいは「一が多で多が一」という共通の確たる「思想がある」のであって、その意味で「ひとつ」なのだ、ということになるのでしょうか。「抵抗」だけでは西洋近代を越えられないが、「無あるいは多一の思想」で西洋近代を超えることができるし、超えるべきだ、と。中島氏のいわれるのは、そのようなことのようです。