アジアあるいは義侠について8 

 続きですが、中島氏は、このように見たのでした。
 
 ここで竹内は、不可避の膨張主義は「人民の自由の拡大」と結びついているならば、それはアジア主義の可能性としてとらえていいのではないかという問いを投げかけているのです。
 
 そして、こう反論します。
 
 −−「自由の拡大」をもたらす「膨張主義」とは可能か。それはイラク戦争などでアメリカが用いた正戦論(Just War)という詭弁と何が違うのか。(p.57)
 
 私は竹内の最後の問いは、アジア主義の思想的可能性を矮小化するものだと考えています。「自由を拡大する膨張主義」など、どこまで行っても帝国主義の別名でしかありえません。自由を与えれば民族のトポスを収奪できるというのは植民地主義者の発想そのものです。アジア主義の可能性は、そのようなところにはありません。(p.60)
 
 中島氏のいわれていることは非常に明確直截であり、全くその通りと思います。異論ありません。
 そうではあるのですが、ただ、時代もありますから、竹内のいっていることも、もう少しだけ捨てないで見てみましょう。
 時代といいましたが、竹内の「日本のアジア主義」は、63年に出ていますので、中島氏の本とは半世紀の開きがあります。例えば、上の引用で「竹内の最後の問い」とあるのは、西郷隆盛評価に関わることなのですが、中島氏も書かれているように、西郷論は、78年の毛利敏彦氏の本で大きく転換します。竹内と中島氏はその前後に分かれますから、いわば議論のステージが同じではありません。
 それだけではありません。無精者なので、物置を引っ掻き回したりといったことをする気は全くありませんが、たまたま手近の片隅で松本健一の『竹内好「日本のアジア主義」精読』を見つけました。その本岩波現代文庫、2000)で、松本は、「一九六四年社会転換説」というのを提唱しています。
  
 (東京オリンピックのその年辺りから、日本人は)西洋の「文明」を超えるアジア的な革命に心魅かれなくなった〜。(p.163、以下面倒なのでページは省略させていただきます)
 
 一九六四年は、その転換期に位置していた。それは日本社会が、いわばアジアから西欧へと大きく移行していった時期だった。
 
 極論すれば、一九六四年とは、日本が「アジア」ではなくなった最初の年であった。
  
 そして松本は、竹内の本が出た63年というのは、
 
 日本の近代史から「アジア主義」という思想概念を抽出する最後の、ぎりぎりの政治的季節だったのではないか。
 
と書いています。
 もちろん、松本自身が直後に付記しているように、それは、64以後は「アジア主義」の抽出ができない、という意味ではありません。ただ、「アジア主義」という同じ語を用いても、その意味は、あるいはむしろその言葉が喚起する切実さは、同じではありえないということなのでしょう。
 というようなこともありますので、「中島氏のいわれていることは非常に明確直截であり、全くその通りと思います」、と書いたばかりですが、もう少し立ち止まってみた方がいいように思うのです。
 (などといってしまうと、大変なことになりそうですね。竹内論などとても書ける筈もつもりもありません。以後も全く気楽な雑談だけですので、不乞ご期待。)