アジアあるいは義侠について9

 昨夜、「竹内論など書けないし書くつもりもない」と書いて終わったところ、全く偶然にも今朝の新聞書評欄で、『竹内好とその時代』という立派な論集が出ていることを知りました(黒川みどり、山田智編、有志舎)。誠に申し訳ないのですが、高くて分厚い本は買わず読まず置かずということになっていますのでm(_ _)m、ますます何も書けません。以下、昨日も予告した通り雑談ですので、悪しからずご了承ください。(ですので、ページの注記など面倒なこともやめ、いい加減な引用で失礼させていただきます。)
 ということですが、極く簡単にしてしまえば、問題は、「膨張主義」と「侵略主義」の関係ということのようです。竹内は「膨張主義」でも「侵略主義」でない可能性はある(あった)といい、中島氏は、そんな「膨張主義」はない、あったとすれば「植民地主義者の発想」であり、アメリカの「正戦論」という「詭弁」と同じだ、という。まあ、そんなところでしょうか。で、中島氏のいう通り、と賛成したのでした。
 ただ、これまた昨夜も触れた通り、時代が時代ですので、ことばのニュアンスなども異なります。ということで、少しゆっくり見ていきたいと思います。
 いったい竹内のいう「膨張主義」ということばは、どういうことを指しているのでしょうか。「主義」という語自体が大変ゆるやかな使い方ですが、その前後を読むと、今でいえば大谷選手が二刀流をひっさげてメジャーに行った行動などもそれに関係あるかもしれません。少なくとも野茂英雄はそうでしょう。国を閉ざして縮こまっていた時代から解放されて、南極やシベリアに探検に行く、学術調査に行く、布教に商売に海を渡る、ハワイに移民する、など。そういった行動に見られる時代の精神を竹内は「雄飛の思想」と呼びます。そして、それが「国家形成によって膨張主義に転ずるのか、それとも膨張主義が国家形成の一要素なのか、その辺はむつかしいが、しかしともかく」といって、そのあとに、問題の、「初期ナショナリズム膨張主義の結びつきは不可避なので、もしそれを否定すれば、そもそも日本の近代化はありえなかった」、という文を書いたのでした。
 ということで、どうやら「雄飛の思想、膨張主義、侵略主義」、という三段階があるようで、そこから、維新がリリースした雄飛が「膨張主義に転ずるのか」、そして膨張が侵略に転ずるのか、という問題が生じることになるようです。