他にしないといけないことがあると逃避でここに・・・まずい状態ですが、乗りかかった船ということで、つまらぬ駄文をお許しください。
さて(承前)、ともかく、中島氏の引用部分(中島p.80〜)で葦津がいっていることを、整理して紹介しましょう。もちろん、整理といっても、文の骨格は変えていません。
(A)「東洋の政治思想(孔孟の思想)は、天下の仁政(世界の人民ための良い政治)を重んじるものであって、20世紀のような民族・政府の独立とか主権とかいう思想ではなく、インターナショナルであった。」
中島氏同様に、「インターナショナル」という語に注目したいのですが、その前に、感心してしまいましたので、ちょっと横道に。
感心したというのは、最初の行から既に見られる、文章構成の巧妙さです。論理学か修辞学の教科書の例文になるのじゃないでしょうか。(「天下の仁政」の後の(世界の人民ための良い政治)という付記は、もしかすると引用者の中島氏によるものかもしれませんが、ここでは葦津原文にあったと解釈しておきます。どちらでもいいのですが。)
ここで問題になっているのは、「東洋古代の政治思想である孔孟の思想」と「20世紀の民族の独立や主権とかいう思想」です。だったら、例えば、
「東洋古代の政治思想である孔孟の思想には、民族の独立や主権という思想はなかった」。あるいは、「民族の独立や主権という思想は20世紀の思想であって、古代の政治思想にはなかった」。
これなら、論理的にスジの通った文になります。ただこれだと、「そりゃそうでしょう」といわれるだけでしょう。古代の思想に20世紀的な思想がないというのは、洋の東西と関係なく、当たり前のことですから。
だから、そういった書き方では駄目なんですね。西洋より「東洋の政治思想」をイメージアップし、「民族の独立とか主権とかいう思想」をイメージダウンさせるのが論客の狙いです。
そこで先ず、「東洋の古代政治思想は、天下の仁政、つまり世界人民のための良い政治を重んじるものであった」、と書き出されます。「良い政治を重んじる」というのですから、当然いいイメージですね。
そこで次に、ちょっと実験ですが、次の文を比較してみてください。
孔孟の思想というのは、天下の仁政を重んじるという思想であった。
孔孟の思想とかいうのは、天下の仁政を重んじるとかいう思想であった。
「という」を「とかいう」に、一文字足しただけですが、どうでしょうか。それだけで、イメージダウンになっていませんか。
そこで、葦津文(A)を見なおしてみましょう。
「東洋の孔孟思想は、世界の人民ための良い政治を重んじるものであって、民族・政府の独立とか主権とかいう思想はなく、インターナショナルであった。」
どうでしょうか。先ず「東洋の孔孟思想」をイメージアップしておいて、対比するものには、「とかいう」テクニックを使っています。これで、「民族の独立や主権という思想」は、「自民族ファーストで世界の人民のことなど考えず、各民族や政府が独立<とか>主権<とかいって>、互いの戦争を後押しするようなダメな思想」とイメージダウン。
「インターナショナル」というのもうまいですね。もちろん、インターナショナルという観念は、西洋近代の「民族の独立や主権をいうナショナリズム」を暗黙の批判的前提として、後から登場したものであって、政治思想の歴史をきちんと扱うなら、孔孟思想について、説明抜きで「インターナショナル」という「20世紀の」用語は使えない筈です。しかし、あえてここで、現代の読者にとって悪くないイメージをもつカタカナ語を利用して、孔孟思想のカビ臭さを脱臭します。同じような意味の語を使っても、現代の読者にどう感じられるか、次の文を比較してみてください。
東洋古代の政治思想は「民族」ではなく「天下」の仁政を重んじる。つまり八紘一宇の思想であった。
東洋古代の政治思想は「民族」ではなく「天下」の仁政を重んじる。つまりインターナショナルであった。
いやあ、流石に有名な論客の修辞テクニックは、冒頭から座布団三枚ですね。東洋古代の孔孟思想は「人民のための良い政治」で、現代でいえばインターナショナルな思想であった、と。
さて、そういうイメージ操作をしておいて、そこに追い打ちをかけてゆきす。
(B)「異民族の仁政よりも同じ民族の苛烈専制の暴君の方がよいなどという思想は、古代東洋には全くない」。
「そこでは、人民は、同じ民族の暴政よりも異国の仁政の王者を欲するのが自然だ、と考えられた。」
これまた大変巧妙な文章ですね。
ここでも<などという>と<とかいう>テクニックが使われていますが、「異民族の支配」には「仁政」のイメージを割り当てておいて、「同じ民族の政治」には、「苛烈、専制、暴君」と、これでもかというマイナスイメージを重ねます。
そりゃ洋の東西を問わず、いつの世だって、人民は「苛烈専制の暴君」より「仁政」を欲するに決まっています。それが基本です。そこで、こっそり修飾句を潜り込ませるのです。このように。
仁政よりも苛烈専制の暴君の方がよいなどという人民はいない。これが基本だ。
(だから)異民族の仁政よりも同じ民族の苛烈専制の暴君の方がよい、などという人民はいない。
昔の論理学の教科書に、次のような例題がよく出ていました。
店で買った美味しいケーキより不味い自家製の方がいいという人はいない。故にみんな店で買う。
コーランと同じ内容なら不要。コーランと違う内容なら有害。故に本は不要または有害だ。
これらの論法は、「美味しい自家製」や「違う内容でも有益」という選択肢をワザと外すテクニックですが、葦津文でも、「同民族の仁政よりも同民族の仁政の方がもっとよい」、「異民族の暴君よりも同民族の暴君の方がまだましだ」、といった選択肢はワザと隠されています。
ということで、葦津の上の文章(A、B)は、次のようなメッセージを(論理的にではなく情緒的に)読者に読み取らせるように巧妙に作られているのです。
「東洋の政治思想(孔孟の思想)は、「世界の人民ための良い政治」を目指すという、立派なインターナショナル思想であった。ところが20世紀には、自民族の独立だとか主権とかを言い立てて、周囲の国と対立し戦争を引き起こすような政治思想がはびこっている。本来、人民というのは、同じ民族ならどんな苛烈専制の暴君でもよいというのではなく、「世界の人民のための良い政治」を目指す隣国があれば、当然そちらの統治を望むものだ。」
葦津が何をいおうとしているのか、もうお分かりですね。
「店のケーキというのは、万人のために美味しく作られているのだ。自家製なら超マズくてもよいなどというのは間違っている。隣に立派な店があるのだから、自家製などやめて、売って下さいとお願いする態度が、人として当然なのだ」。座布団三枚!