アジアあるいは義侠について28:天子の連帯

 修行が全くできておらず、失礼な言いがかり雑言を繰り返すだけの私などとは違って、中島氏は誰にも優しく、葦津についても、鶴見俊輔とも交流を続け左翼とも議論できる広い知性の持ち主と評価し、「王道インターナショナル」論の「危険性」についても、葦津を「冷静」「的確」と評しつつ、こんな風にいいます。
 「しかしこの王道的「仁政、連帯の精神」は、「内政干渉ともなり、侵略、征服ともな」ってしまうことを、彼(葦津)は冷静に批評します。」
 「しかし、葦津が的確に論じるように、この「王道インターナショナリズム」は「一歩を誤ると内政干渉ともなり、侵略、征服ともなってしまいます。王道精神に基づく連帯を志向していたはずが、自分たちの意見を受け入れない相手国への高圧的な態度へと変じ、知らぬ間に「覇道」的な方向へと歩んでいく危険性がありました。」
 「一歩を誤ると」「知らぬ間に」「変じ」るというのは、どういうことでしょうか。また、「王道精神に基づく連帯」とは、誰と誰が「連帯」するのでしょうか。葦津のような論客に比べて知性が乏しい者には、申し訳ないのですが、よく分かりません。
 葦津は、「東洋の政治思想(孔孟の思想)は、天下の仁政〜を重んじるものであって、〜インターナショナルであった」、と書いていました。逆にいえば、「王道インターナショナル」とか「インターナショナル仁政主義」というのは、孔孟の政治思想だということです。だとすれば、天命を受けて王である者は、自らと他王を<相対化して対等な>「連帯」関係に立つといった態度はとれない(とらない)でしょう。「孔孟」の名を挙げている限り、周辺の異民族諸国である夷狄については、服属国として朝貢関係に置くか、滅ぼして自国に併合してその人民に自らの「仁政」を及ぼすか、しかありません(「日出処の天子」はそこを間違えたのでした)。「一歩を誤る」と「知らぬ間に」ではなく、王道精神に基づいて自王の仁政を隣国の人民に広げようということを、もしあえてなお「連帯」ということばで表そうというなら、「仁政、連帯」はそのまま、現代語でいえば「干渉、侵略、征服」になるでしょう。
 念のためにいっておきますが、それを直ちに悪いというのではありません。例えば、虐待から救おうと隣家の子どもを保護するのは、時には立派な行動でしょう。ただ、信念を持ってそうする人なら、「一歩を誤ると隣の親権への介入になりますが」などとごまかさず、「介入です」というでしょう。八紘一宇を「インターナショナル」といったり、内政介入を「連帯」といったりする巧言令色座布団を潔しとしないのが、「王道」を歩むということではないでしょうか。
 またまた、変なイチャモンになってしまいました。全く修行が足りません。勝手な遊びですのでお許しください。とにかく、もうやめたいのですが。