アジアあるいは義侠について30:三択

 西郷のことなど書くつもりは全くなかったのですが、西郷という人は、多くの人を魅了する、スケールの大きい人格者だったというのは確かなことなのでしょう。個人的に悪くいうつもりはありません。というか、知らないし。あくまで雑談の流れで登場してもらっているだけですので、ファンの方々には悪しからずお許しを。
 さて、「西郷を反革命と見るか、永久革命のシンボルと見るかは、容易に片付かぬ議論のある問題だろう」、と竹内はいったのでした。そして、反革命永久革命か、反動か維新か、覇道か王道か、といった「容易に片付かぬ議論」は、結局、西郷の征韓論とは何だったのかということに行きつくようで、特に毛利敏彦氏の西郷資料の解釈についての画期的見解が、征韓論者西郷という通説イメージに真っ向批判の矢を放ってからは、そこを問題にしないでは西郷を語れないことになっているようです。
 しかし、手紙や文書の文言をどう読むかなどいうことは、狭い研究世界での話です。そんな話はしばらく無視して、中学生少女の恋の悩みからでも始めましょう。

 このまま思ってるだけがいいのかな・・・[何もしない]
 でも普通に話しかけてみようかな・・・・・[話をする]
 いっそ「好きです」と告白する?・・・・・・[アタック]

 話かけてみて、先ず友だちになれればいいですね。では、次の三択はどうでしょうか。

 上野の山? しばらく放置しておけば、降りて来よう。・・・・・・[何もしない]
 出向いて説諭し解散させよう。問答無用の攻撃は下策。・・・[話をする]
 見過ごせない。明朝砲撃して殲滅すべし。・・・・・・・・・・・・・・[アタック]

 [何もしない/話をする/アタック]というパターンは同じですが、ただし大きな違いがあります。少女にとって、[話をする]は対等の男子生徒と友好的な会話をすることですし、[アタック]は愛情の告白です。けれども、彰義隊への対応では、相手は対等ではありません。[話をする]のは、相手を従わせるための「説得」ですし、[アタック]は暴力行使です。
 関連して、これが重要なことですが、[話をする]が失敗した場合にも違いがあります。
 恋する少女の場合には、うまく[話をする]ことができなかったら、それ以上は[何もしない]で片思いに戻るでしょう。友人を映画に誘うような場合もまた、もし[話]に乘ってこなかったら、一人で行くか、[何もしない]で家にいるでしょう。
 それに対して、彰義隊への「説得」の場合には、失敗したなら、多分武力鎮圧派を抑えられず、きっと砲撃[アタック]が始まるでしょう。
辺野古の美ら海を残したいという[何もしない]願いに対する、政府のとる行動も同じです。
 誠意をもって[説得する]が → 応じないなら、やむをえない → 美ら海には[何もしない]で基地は本土に作ろう。
という道は、最初から外されていて、
 予算をチラつかせて[説得する]が → 応じないなら、やむをえない → 作業を[アタック]開始する。
ということでしょう。
 では、西郷の場合はどうだったのでしょうか。
 少女のように、「話かけ」みても友だちになれなかったら → 片思いのままで[何もしない] のか 
 政府のように 一応「説得する」が → 地元が応じなかったら  → 工事を開始する[アタック]のか
どちらだったのでしょうか。