アジアあるいは義侠について31:政治家西郷

 実際の1873(明6)年の状況は二転三転、しかもあれこれ策謀が入り組んでややこしいようですが、先ずそこを無理に、単純な図式にしてみましょう。無理は承知ですので、細かいことはいわないでください。

 大久保「山積する内政を優先すべし」・・・[何もしない]
 西郷「おいどんが出向いて説得する」・・・[話をする]
 板垣「即時出兵して要求を通す」・・・・・・・[アタック] 

 さて、通説を単純化すればこうでしょうか。
 ●西郷は板垣に「私が行って大義を作るから、君出兵して制圧しろ」と書いている。
  → 故に、西郷は出兵征韓論者である。
 それに対して、毛利氏の批判を単純化すればこうなるでしょうか。
 ●西郷が板垣に書いたのは、「だから君、私の案に賛成したまえ」という、懐柔目的の私信である。
  公式文書では、「私が行って平和に話す」と強調している。
  → 故に、西郷は出兵論者でなく平和交渉論者である。
 つまり、私信は<策略嘘>で公式文書が<本心>だということですね。
 その後の論争など、研究界のあれこれは全く知りませんので、何度もいいますが、以下は雑談です。
 毛利氏は、私信は<嘘>で公式文書が<本心>といいますが、世間では逆に、公式文書には<タテマエ嘘>を書き私信で<ホンネ>を漏らすというのが普通でしょう。ただしそれは、私信の相手が親友などの場合に限られます。だから、板垣宛の私信で、西郷は本心ではない<策略嘘>を書いたというのは理解できます。ただ、そうだとすれば、結構「政治的」ですね。
 重要なことは、仮に私信が<策略嘘>だとしても、だから公式文書の方は<本心>だ、という結論にはならない、ということです。両方共<策略>かもしれませんから。
 ●板垣には、「大義ある出兵がよりいいだろう。だから君、私の案に賛成したまえ」と書く。
  公式には、「即時出兵より平和交渉がいいだろう。だから皆の衆、私の案に賛成したまえ」という。
 もしもこのようだったとすれば、「よっ、政治家西郷」、と声を掛けたくなります。「寡黙で二心なく、常に誠心誠意の人」、というイメージが正しいのか、ときには<策略嘘>も使う結構「政治家」だったのか。もちろん私には判定できませんが。
 それはともかく、表面的な動きについては、先ず板垣が「なるほどそうだな」と即時出兵案を引っ込めて西郷案に賛成し、他にも支持を集めた結果、西郷案で決定したのですが、ところが大久保の策略で、天皇が(あるいは天皇の名で)西郷案がひっくり返された、ということのようです。
 さてそこで、問題です。西郷は、中学生少女だったのか、それとも日本政府だったのか。
 前に書いた点について見てみましょう。
 先ず第一点。恋に悩む少女の場合、相手は「対等」であり、もしも勇気を出して話しかけ、相手の男子が「一緒に帰ろうか」などと言ったなら。もちろん大喜びで「相手に従い」ます。対して自民政府はといえば、辺野古の住民には最初から超「上から目線」で、話をするとしても、「自分に従わせる」ための説得です。
 西郷の場合、使節として行こうというのですから、相手は人民ではなく為政者であり国ですが、その目線はどうだったのでしょうか。前に触れた、『南洲翁遺訓』の松本健一引用部分の主旨は、「覇道は野蛮、王道こそ文明」ということですが、言葉遣いはこうなっています。
 「真に文明ならば、未開の国に対しては、仁愛を本とし、懇々説諭して開明にみちべくべきに〜」。
 つまり、西洋は実は覇道を行う「野蛮国」であって、王道を行く我が国こそが「文明国」でなければならないというのはいいのですが、「未開の国」といわれるのが隣国のことでしょう。
 『遺訓』は、死後に他人が書いたものですから、字句にこだわりすぎるのはよくありませんが。少なくともその字面では、「対等」ではなく「上から目線」であり、未開で物が分からぬ相手を「自分に従わせる」ための「懇々説諭」です。